使徒信条は「聖徒の交わり」の次に「罪のゆるし」と言っています。これは決して偶然ではないでしょう。聖書の信仰にとって根本的に重要な「罪のゆるし」について今回は学びましょう。
目には見えない聖霊のお働きは「聖なる公同の教会」や「聖徒の交わり」において具体的に現れます。心に留めたいことは、いずれも集団であるということです。神は人を創造なさった時「人が独りでいるのは良くない」と言われました(創世記2:18)。人間は孤独であってはいけないということです。共に生きる仲間がいて初めて、力を合わせ心を合わせて生きる社会を人間は作り出すことができるからです。
聖霊は、堕落によって本来の輝きを失い破壊されてしまった人間の社会や共同体を再生なさいます。そのように聖霊によって生み出された信仰共同体である教会こそ、神の民の新しい在り方、新しい共同体の姿なのです。
この新しい共同体は、しかし、未だ理想的な“聖人の交わり”なのではありません。むしろキリストによって赦された罪人たちの共同体なのだと、前回学んだわけです。つまり、この世を旅するキリストの教会にとって「罪のゆるし」はその根幹に関わる重要な事柄だということです。この「罪のゆるし」について正しい理解を持つことが、教会を真に教会らしくすることでしょう。
大切なことは、このキリストの命の重みを感じながら
「罪のゆるし」を受けるということです。
「あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が…/主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(ミカ7:18-19)。これが私たちの信ずる神です。二度と浮き上がって来ない「海の深み」へと私たちの罪を投げ込まれる。つまりは完全に忘れる。思い起こさないということです。このことを『信仰問答』は「もはや覚えようとはなさらず」とか「もはや決して裁きにあうことのないようにしてくださる」と表現しています。
そのようにして神が忘れ去ってくださる罪には三つの側面があります。第一に私がこれまで犯し続けてきた「すべての罪」。第二に「わたしが生涯戦わなければならない罪深い性質」。善をなそうという意志があってもそれを実行できない。それどころか、してはならないことさえしてしまう惨めな自分がいる(ローマ7:15以下)。それは私の中に巣くう「罪深い性質」の故です。そして第三に、私が将来にわたって犯すであろう罪。すなわち、過去と現在と未来にわたる私の罪を、神はことごとく赦してくださるというのです。
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この驚くべき神の寛容また恩恵を“無償の愛”と呼ぶことがあります。それは必ずしも間違いではありませんが、事柄のもう一つの側面を忘れてしまう恐れがあります。この神の赦しは、決して“無償”ではないからです。神は私たちを赦す代わりに多大な犠牲を自ら支払われたのです。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(2コリント5:21)。「この方こそ、わたしたちの罪、いやわたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(1ヨハネ2:2)。
私たちの罪の赦しはこの「キリストの償いのゆえ」であって、決して無償なのではありません。神が御自分の独り子を犠牲にされたという想像を絶する償いのゆえに、私たちからはその償いが求められないだけなのです。これが“無償の愛”の真の意味です。
“濡れ衣”という言葉があります。主イエス・キリストは私の濡れ衣を着せられました。いえ、自ら進んでそれを身にまとい、私の身代わりとなって裁きを受けてくださいました。そして、私に無実という純白の衣を着せてくださったのです。それ故にこの「キリストの義」を着た者は「もはや決して裁きにあうこと」がありません(ガラテヤ3:27,黙示3:5)。
大切なことは、このキリストの命の重みを感じながら「罪のゆるし」を受けるということです。キリストの犠牲の重みを真に受けとめた人は、心を尽くしてキリストのために生きる生活へと変えられるのではないでしょうか。キリストの愛の重みを身にしみて感じた人は、他者の罪をも心から赦す(忘れ去る)ことができるようになるのではないでしょうか。
キリストの教会は、このキリストの赦しに基づく共同体です。それは“赦しの愛”に基づく新しい共同体なのです。
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