今回も引き続きキリストの教会について学びます。使徒信条は教会を「聖徒の交わり」とも呼んでいます。教会は“聖人”たちの集いなのでしょうか? 「聖徒の交わり」に込められた豊かな意味を学びましょう。
キリスト教会の中心は、何よりもまず主イエス・キリストです。この方が御自分の御霊と御言葉を通して今も働いておられる。それが、教会が「聖」と呼ばれる理由だと前回学びました。このお方はこの世と自分自身の罪の重荷にあえいでいる私たちを憐れみ・愛し・重荷から解き放ってくださいます。そこには何の差別もありません。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)。
こうしてキリストに結び合わされた人々の共同体、それを「聖徒の交わり」と呼びます。集まる人々が“聖”なのではありません。集めてくださる方が“聖”なのです。この方が、御自分の血によって私たちの罪を完全に赦し“聖なる者”としてみなしてくださる(1コリント1:2)。これがキリストの教会です。「聖徒の交わり」とは、キリストによって罪赦された者たちの共同体のことなのです。この共同体では、一人一人がかけがえのない存在です。主イエス・キリストが命がけで愛してくださった方々だからです。
主イエス・キリストを信じる「信徒は誰であれ、群れの一部」となります。この場合の「一部」または他の「部分」と訳された言葉は英語で言えば“member”で、元のドイツ語でも“会員”とも体の“部分”とも訳せるおもしろい言葉です。つまり、キリスト教会のメンバーになるということは、キリストの体の一部になることなのです!
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聖書はしばしば教会をキリストの体にたとえていますが(ローマ12:5,1コリント12:7など)、その中心的な意味はキリストの命にあずかるということにあります。しかもその命は豊かなのです(ヨハネ1:16,10:10)。「主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている」からです。キリストを通して私たちは、言わば、天上のあらゆる賜物にあずかるのです。
キリストの体の一部となった人には皆、この命が流れています。体につながっている以上、その命にあずからない部分などありません。たとい自分がつまらない者のように思えることがあるとしても、このキリストの計り知れない富に確かにあずかっているのだということを忘れないようにしましょう(エフェソ3:8)。
「聖徒の交わり」とは、キリストによって罪赦された者たちの共同体のことです。
この共同体では、一人一人がかけがえのない存在です。
しかし、キリストの教会のメンバーは、それだけで終わってはなりません。自分の幸せだけで満足するのではなく「各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任がある」のです。
なぜなら、第一に、私たちが持っているもので自分が元々持っていたものなど一つもないからです(1コリント4:7)。すべては神から与えられた賜物です。私たちはその管理者にすぎません(1ペトロ4:10)。そうであれば、神の御心に適って用いることが必要です。
第二に、私たちがいただいている賜物は、主が自ら犠牲を払ってくださった愛の賜物だからです。私たちは、どうしてそれを自分の利益のためだけで終わらせることができましょうか。主イエス・キリストの命の通う賜物は、主がなさったように互いの益と救いのために用いて初めてその真価が発揮されるものなのです。
第三に、キリストの賜物は、キリストの体全体のものだからです。手は手のためだけにあるのではありません。足も足だけのためにあるのではありません。体全体のためにあるのです。一つ一つの部分が他の部分のために自分の務めを果たす時に、体は全体として健全に成長して行きます。体には多少見劣りがする部分や弱い部分もあるかもしれません。しかし、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」(1コリント12:24)。それは互いに配慮し合い「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」というキリストの愛の共同体として成長するためです(ローマ12:15)。
キリストの教会では、賜物の出し惜しみは禁物です。一人一人が大切にされ、皆が自分の賜物を「自発的に喜んで」用いて行く時に、私自身も全体も輝くものとなるでしょう。それが、キリストを中心とした健康な「聖徒の交わり」の姿です。
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