「まことの神であると同時にまことのただしい人間」。
この人間には想像もつかない救い主がなぜ必要なのか。そして、それがどなたなのか。それをついに『信仰問答』は明らかにします。
罪の世界に沈んだ私たち人間を、神の刑罰から救ってくださる「仲保者また救い主」がいるとすれば、それはどういう人でなければならないか。「まことの、ただしい人間であると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、すなわち、まことの神でもあられるお方」(問15)。これ以外に可能性はない。それが答えでした。今回は、なぜそうなのか、そしてそれが誰なのかを学びます。
このようなやり取りは、少々くどいと感じられるかもしれません。けれども、これらの問いは、長いキリスト教の歴史の中で真剣に問われてきたことなのです。八百万(やおよろず)の神々や手軽な助けがいくらでもある私たちにはよくわからないかもしれません。しかし、この世界と人間を創造された神がただ一人しかおられないのだとしたら、そこでは、救われるか裁かれるか、どちらかしかありません。この神の御前に刑罰にしか値しない人間にとって、なお逃れる道があるかどうかは、この世界に生きる事を許されるか否かという存在に深く関わる問いなのです。それだけに、どのような救い主でなければならないかは死活問題なのでした。
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「なぜその方は、まことの、ただしい人間でなければならない」のでしょうか(問16)。神の義は、人間の罪の償いがただ人間によってのみなされることを求めます。人間のようなものではなく、「まことの」人間でなければならない。人間の性質に染み付いた罪性を償うには真の人間性を持ったものでなければなりません(ヘブライ2:14)。さらに言えば、罪がどんなに恐ろしく、どんなに私たちを苦しめ、人間がそれに対してどんなに無力かを身をもって知った人でなければ、私たちの身代わりとは言えないでしょう。
しかし、罪を持っている人が他の罪を負うこともできません。「ただしい」とは、たんに品行方正な人間というだけではなく、「完全な」という意味です。全く罪のない、全くきよい、全く正しい人間です。なぜか。借金を抱えている人が他の人の借金を負うことはできないからです。他の重荷を負うためには、自らは負っていない人でなければなりません(ヘブライ7:26-27)。
しかし、人間であるだけでも、救い主にはなれません。「同時にまことの神」(問17)であることがどうしても必要でした。第一に、神の怒りの重荷を一身に負うことは人間には不可能だからです。しかも、第二に、ただ耐えるだけではなく「わたしたちのために義と命とを獲得し、それらを再びわたしたちに与えてくださる」こと。私たち一人一人に人間本来のあるべき姿・輝くような命を回復してくださること。一言で言えば「救い」を与えてくださること、これは神のみができることなのです。およそ人間に命を与えうるのは、神のみだからです。したがって、私たちと神を和解させる仲保者は、どうしても「まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある」方でなければなりません。
イエス・キリストがこの世に来られ、そのすべての御業を示されて初めて、
人間は想像を絶する神の救いを知らされたのでした。
ここに至って『信仰問答』は、その救い主こそが「わたしたちの主イエス・キリスト」であることを高らかに宣言します(問18)。もちろん、事柄は逆なのです。イエス・キリストがこの世に来られ、そのすべての御業を示されて初めて、人間は想像を絶する神の救いを知らされたのでした。
このような救い主を人間は思いつきもしませんでした。そもそも神の存在さえも信じられないような罪人なのですから。それにもかかわらず、神の愛の何たるかも知らない時に、「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」(1ヨハネ4:10)。ここに愛があります。滅んで当然の私たちを救うために、そこまでなさる神の愛を知ったのです!
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:18)。この方こそが「わたしたちに与えられている」救い主です。まさにクリスマスの贈り物として私たちに与えられたお方です。もう救いをどこかに探す必要はありません。絶望して天を仰ぐ必要も、命を絶つ必要もありません。あのクリスマスの夜から、この方があなたの、そして世界の救いの光となったからです!
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