“慰め”には、悲しみや苦しみを和らげる働きがあります。悲しみや苦しみそのものを取り去るというよりは、それらを乗り越える力を与えるものです。『信仰問答』が問1で掲げている“慰め”とは、いったいどのようなものでしょう?
「ローマの信徒への手紙」という書簡は、聖書の中の最高峰と言われています。そして、その手紙の中でも最も高い頂上にあたるのが、第8章です。聖書全体を流れる神の愛とキリストの福音が、燦然と輝きわたっているからです。キリストの福音の恵みをあれこれと説明してきたパウロは、神の恵みの圧倒的な力に感極まって、次のように書いています。「死も、命も…、現在のものも、未来のものも…、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38-39節)。
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『ハイデルベルク信仰問答』が問1で教えている「慰め」とは、実にこのような慰めのことです。私たちが思っているような感情的なものでは必ずしもありません。「慰め」と訳されたドイツ語の元々の意味は、私たちの心を置くべき拠り所や確信といった意味合いを持つ言葉と言われます。元の意味からすれば、むしろ「拠り所」と訳した方が近い言葉かもしれません。「生きるにも死ぬにもあなたのただ一つの拠り所は何か」。私たちが体も魂もすべてを任せることのできる、全幅の信頼を置くことのできる、その拠り所とは何かという問いなのです。
それに対し、『信仰問答』は、「わたしがわたし自身のものではなく…、イエス・キリストのものであることです」と答えます。「わたし」という弱くあてにならない者が、わたしの真実な救い主キリストのものになること。キリストを通して永遠不変の神のものになること。それこそが決して揺るぐことのない確かな拠り所である、「慰め」であると言うのです。
当時を生きていたマルティン・ルターという宗教改革者は、死の床に伏す母親に対して「お母さん。天国のイエス様はもう私たちを裁く方ではありません。私たちを救ってくださったお方なのですから、何一つ恐れることはありません。心配することはありません」と、慰めています。
ジャン・カルヴァンという改革者も生涯の終わりに、遺言書の中で、イエス・キリストの死と苦しみを通してわたしのような者の罪を全く赦してくださった、その神の一方的な御恩寵を全身全霊をもって抱きしめる、と書いています。そして、全能の神がわたしの父となってくださり、わたしがその子供とされたという保証以外に寄り頼むべき「慰め」は何一つないと言うのです。
「わたし」という弱くあてにならない者が・・・、
キリストを通して永遠不変の神のものになること。
かつては高慢と不遜に凝り固まって生きていたパウロにとって、あるいは死と審判の不安や恐れにさいなまれていた人々にとって、自分の存在すべてがイエス・キリストのものになったということにまさって確かな慰めに満ちたことはなかったのです。
答えの文章は、さらに続きます。
そもそもわたしの罪も弱さも、こんな何の取り柄もないようなわたしがキリストのものとなれたのは、このお方がかつてカルバリの丘の十字架で御自分の命と引きかえにわたしの罪を完全に償ってくださった(過去)からである、と言われます。
そして、この方を通して、今や全能の神がわたしの父となって、わたしのために万事を導いてくださっている(現在)。さらには、この方の聖霊によって、わたしに永遠の命が保障され、この方のために今すでに生き始めている喜びが与えられ、いつかは私も神様にふさわしく作り変えられる(未来)。
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イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受ける時、教会では「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授ける」と言われます。この日から、わたしがもはやわたしのものではなく、キリストのものになるからです。キリストを通して、三位一体の神の御手の中で生きる者となるからです。
もし神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できるでしょうか!
これこそが、聖書が告げる福音です。
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