キリストへの時間

神の国の市民として

放送日
2026年8月30日(日)
お話し
唐見敏徳(忠海教会牧師)

唐見敏徳(忠海教会牧師)

メッセージ:神の国の市民として

【高知放送】

【南海放送】

 「キリストへの時間」をお聴きの皆さん、お元気でしょうか。忠海教会牧師の唐見です。
 
 日本キリスト改革派教会は、今年、創立80周年を迎えました。5月の5日と6日の両日、香川県善通寺市の四国学院大学を会場に、記念の会が催されました。四国学院大学と日本キリスト改革派教会の関係は、開学の時までさかのぼります。わたしが牧師、チャプレンとしてお仕えしている忠海教会、社会福祉法人聖恵会の関係者の中にも、四国学院出身の方が大勢おられます。
 
 創立80周年を迎えるにあたって作成された記念宣言では、「神の国」という言葉が全体の枠組みとして用いられています。「神の国」は、聖書のメッセージを理解する上で極めて重要な意味を持っています。

 イエス・キリストは、その活動を始めるにあたって、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)といわれました。そして、「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられ」(ルカ8:1)ました。日々の生活の中で思い悩む人々に対して、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と教えられ、また、いろいろなたとえを通して、「神の国」について語られました。
 
 およそ二千年前の新約聖書の時代、イスラエルの人々にとって、「神の国」という言葉は、特別な意味を含んでいたと考えられています。当時は、ローマ帝国が地中海世界全体の覇権を握っていた時代であり、イスラエルもその支配下にありました。ローマ帝国の支配政策は、かつて北イスラエル・南ユダを支配したアッシリアやバビロンの政策に比べて融和的で、より多くの自治の裁量を認めるものでした。

 しかしそれでも、彼らにとって、望ましいことではありません。「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民」(詩編95:7)と考えるイスラエルの人々が待望していたのは、ダビデ王の時代を理想とする「神の国」の実現でした。
 
 そのような時代背景のもと、「神の国」の福音を告げ知らせるイエス・キリストに、多くの人々は熱狂しました。その力強いメッセージと数々の奇跡のわざにふれ、イエス・キリストを通して「神の国」が実現するのではないか、と考えたのです。

 特に、イエスが首都エルサレムに入られたとき、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マタイ21:9)と、イスラエルの人々は、王を迎えるようにイエスを歓迎しました。しかし、この熱狂は長続きせず、逆に、彼らはイエスを、「十字架につけろ」(マタイ27:22)と叫ぶようになるのです。
 
 ユダヤ人の豹変の大きな原因は、彼らが「神の国」について、誤った理解を持っていたことにあります。ファリサイ派と呼ばれるグループのユダヤ人と、イエス・キリストとの間に、以下のやりとりがありました。「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。『神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。「ここにある」とか、「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。』」(ルカ17:20-21・聖書協会共同訳)
 
 このやりとりを通してわかることは、当時のユダヤ人たちの願っていた神の国とは、「ここにある」とか、「あそこにある」ということのできるものだった、ということです。それは、ローマ帝国による支配から脱却して、再びダビデ・ソロモン時代の繁栄を取り戻すことであり、結局のところ、ナショナリスティックなイスラエル・ファーストの実現だった、といえます。
 
 しかし、イエス・キリスト、あるいは、聖書が教える神の国とは、特定の民族による、強力な軍事的、政治的、経済的パワーを持つ国のことではありません。神の国においては、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(ガラテヤ3:28)。それは、「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く」(イザヤ11:6)ような、皆が共に生きる国です。
 
 神の国とは、ふつうに考えればとうてい実現することのない、現実離れしたアイディアのように見えます。しかし、主なる神は、わたしたちが神の国の市民として生きることを求めています。そして、神の国のために生きようとするものを祝福し、確かに神の国を与えてくださるのです。

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