山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:からし種一粒の信仰(マタイによる福音書17:14-23)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
私たちの人生の中には、自分の力ではどうにもならない問題に直面することがしばしばあります。病気、人間関係のもつれ、経済的な困難、心の弱さ…。どんなに努力しても解決の糸口が見つからないとき、私たちは無力感に打ちのめされます。そんなとき、「もし信仰があれば、何か変わるのではないか」と思うこともあるでしょう。しかし、いざ信仰を持とうと思っても、「自分の信仰は小さい」「とても神を動かすほどの信仰なんて持っていない」と感じることがあります。
きょう取り上げようとしている聖書の個所は、まさにそのような問題に触れています。信仰とは何か、そして本当に必要とされる信仰とはどのようなものかを、イエスは弟子たちに教えておられます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書17章14節~23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。
今お読みした個所の少し前で、三人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネはイエスとともに高い山に登り、そこで驚くべき体験をしました。イエスの姿が目の前で変貌し、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。そして天から「これは私の愛する子、これに聞け」という神の声が響きました。これが「山上の変貌」と呼ばれる出来事でした。三人の弟子たちにとって、真の栄光に輝くイエスの姿を垣間見る圧倒的な経験でした。
ところが、その山から降りてくると、現実の厳しい問題が待ち受けていました。そこには群衆が集まっており、一人の父親が必死の思いでイエスに助けを求めて来ます。その父親の息子は悪霊に取りつかれて苦しみ、ひどい発作に襲われては火の中や水の中に倒れこむことがありました。父親は弟子たちに癒してもらおうと頼みましたが、弟子にはどうにもできませんでした。
この場面は、私たちに大切なことを思い出させます。山上で栄光がどんなに素晴らしいものであったとしても、この世の現実は問題に満ちています。信仰は現実逃避ではありません。むしろこの世の苦しみと格闘するために信仰が与えられています。
父親はイエスに助けを求めました。イエスはその少年を癒され、悪霊を追い出されました。しかし同時にイエスはこうおっしゃいました。
「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」
これは弟子たちに向けられた厳しい言葉でした。弟子たちはすでにイエスに従い、宣教の働きに派遣され、悪霊を追い出す権威も授けられていました。それにもかかわらず、この時は全く無力でした。
弟子たちは後でイエスに尋ねます。
「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」。
イエスはお答えになります。
「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
ここでイエスは「信仰の大きさ」ではなく、「信仰の本質」について語っておられます。
「からし種」というのは、当時イスラエルで最も小さい種の一つとして知られていました。イエスはその小さな種を例に挙げて、信仰にとって必要なのはその大きさではない、と教えられます。
私たちはしばしば「もっと強くて大きな信仰が必要だ」「自分の信仰は貧弱で小さい」と感じます。しかしイエスが求めておられるのは、量的に大きな信仰ではありません。ほんのわずかでも、真実に神を信頼する心、それこそが信仰の本質です。
たとえば、崖から落ちそうになったとき、どんなに力が弱くても、誰かの手をつかめば救われます。大切なのは「どれだけ強く握ったか」ではなく、「誰の手をつかんだか」です。同じように、信仰とは自分の力を誇ることではなく、神にしがみつくことです。
イエスがおっしゃる「山を動かす」という表現は、誇張的な表現です。ユダヤの人々の間では「山を動かす」というのは不可能を可能にすることのたとえでした。イエスは、信仰があればどんな不可能も神によって可能になると教えられます。
しかし注意すべきことは、信仰が「自分の願いをかなえる魔法」ではないということです。信仰の対象は神ご自身です。神の御心に信頼すること、それが真の信仰です。からし種のように小さくても、神という全能のお方に根ざしているならば、驚くべき力が現れるのです。
この出来事の後、イエスは弟子たちにご自身の死と復活を再び予告されます。
「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」
弟子たちは深く悲しみました。弟子たちにとって、信仰の課題は悪霊に勝つことだけではありませんでした。もっと大きな試練が待っていました。師であるイエスが十字架で殺されるという現実を受け入れること、それこそが最大の信仰の課題でした。
イエスは、からし種の信仰を持つようにと弟子たちを励まされました。ほんのわずかでも、神の御心に信頼するなら、十字架の暗闇をも通り抜けて復活の光を見ることができるからです。
さて、私たちの生活にこの物語はどのように語りかけるのでしょうか。
第一に、信仰は大きさの問題ではないということです。自分の信仰が小さくても、それを恥じる必要はありません。からし種ほどでも、神に向けられているなら十分です。私たちはしばしば「もっと大きな信仰が必要だ」と思い込みます。しかし大切なのは、どれほど大きな信仰かではなく、どなたに信頼しているかです。
第二に、信仰は現実逃避ではありません。山上で神の栄光を仰ぎ見るような体験があったとしても、私たちは必ず山を降り、苦しみや問題の中で信仰を試されます。信仰は日常の戦いの中でこそ真価を発揮します。
第三に、信仰は自分の力を誇ることではありません。神により頼むことです。私たちは弱く、しばしば無力です。しかし、その弱さを認めつつ、神にすがるとき、神の力が現れます。
ある人は「自分の信仰はあまりにも小さくて、神に受け入れてもらえない」と感じます。でもイエスは言われます。「からし種一粒の信仰で十分だ」。なぜなら、それを成長させ、実を結ばせるのは私たちではなく神ご自身だからです。
あなたの人生にも「どうにもならない問題」があるでしょうか。弟子たちが直面したように、私たちも無力を思い知らされることがあります。しかし、からし種一粒の信仰を持つなら、神はその小さな信頼を通して大きな御業をなさいます。
信仰の大きさではなく、信仰の対象が大切です。全能の神に信頼するなら、不可能と思えることも神の御心に従って可能にとなります。そして、その信仰はやがて十字架と復活を通して完成されるのです。