イザヤ17-18章 造り主に目を注ぐ
その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。もはや、自分の手が作り、自分の指が作った祭壇を仰ぐことなく、アシェラの柱や香炉台を見ようとはしない。(イザヤ17:7-8)
信じて生きるということは、何をよく見て生きるのかということと深く結び付いているのではないでしょうか。ですから、神を信じて生きるということは、神に目を注いで生きるということです。
ただ、日々の生活を振り返ってみると、いろいろなものに目が向いてしまい、疲れ果ててしまうことがよくあります。それは無理のないことかもしれません。私たちは、さまざまなことに気を配りながら生きているのですから。
私たちはキリスト者として、神に目を注がなければ、と分かっていながら、なかなかそのことに集中できない自分に苛立ちを覚えることがあります。まさにそのところで、自分を見失ってしまうのです。自分どころか、真の神を見失い、偶像の神々を造り出してしまっているのかもしれません。
しかし、神が私たちのうちに働かれるとき、もはや、偶像に支配されることはありません。本当に見るべきものだけを見つめます。そのときに、私たちの眼差しは、大きく開かれることでしょう。そして、きょう為すべきことに力を注ぐことができます。
コントローラ
自動再生されない方はこちらから再生(mp3形式)