ヘブライ11章 見えない事実を見ること
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。(ヘブライ11:1-2)
「信仰によって」という言葉がたくさん出てきます。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、エリコの城壁を巡った人びと、士師記の英雄たち、ダビデとサムエルの名を挙げて、彼らのしたことは信仰による、と語り、「これ以上何を話そう」と締め括られています。すべてを語るには時間が足りないというのです。
この人たちは、神からすばらしい祝福をいただきましたが、イエス・キリストの救いという恵みには与っていません。しかし、彼らは神の約束を信じ、神の最後的な救いを確信していたので祝福を受けました。見えないものを見ていたからです。
私たちは、彼らが待ち望んでいたキリストの救いの恵みを与えられました。私たちもまた、この見えないものを見、「信仰によって」生きることにおいて、変わることはありません。ですから、私たちもまた、ここに登場するさまざまな人の列に、自分の名を連ねることができます。
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