私たちの内に生きている主とその教理

2月10日(月) ヘブライ6章

だからわたしたちは、…基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ヘブライ6章1節

キリスト教の初歩はどこにあるか、と聞かれたら、私たちは何と答えるでしょうか。かつて『キリスト教初歩教理問答』で教えられたことを思い出す方もおられるでしょう。

 当時のキリスト教会においても、一定の教理が教えられていました。ところが、この手紙の背景には、一度キリストを告白しながら、古い儀式的宗教に逆戻りしてしまう傾向のある人たちがいました。そのような霊的な危険において、教えの全体を再吟味する余裕はありませんでした。何を第一にするでしょうか。それは、前に教えられたとおり、大祭司イエス・キリストのもとにある救いから目を離さないでいることです。なぜなら、キリストがただ一度十字架の上で成し遂げられた贖いのゆえに、キリストを予表した儀式も祭りも廃止されたと言えるからです。天の王座に着かれたイエス・キリストの執り成しの中に生きることに留まることを、手紙の全体において一貫して教える理由がここにあります。

 この意味で、「イエス・キリストへの信仰」と「命に至る悔い改め」(ウェストミンスター小教理問答問86、87)は、伝道において、最初に教えなければならない教え、また、救いの完成に向かう者にとっても、信仰生活の大原則、土台でありながら、真の信仰と従順の道を備えるものです。

 【祈り】 主よ、いつもあなたが教え導かれる救いの道を共に歩ませてください。

関連記事

今人気の記事をチェック