ヨハネ9章 神の業が現れるため
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)
今の自分を受け入れることができなくなるとき、私たちは、その原因がいったい何であるのかを追求しようとします。自分がこうなったのは、「あの人のせいだ」と言ってみたり、「過去にあんな不幸な出来事が起こったのには、ちゃんとした理由や原因があるに違いない」と考えてみたりします。しかし、それで納得できるわけではありません。何かが心に引っ掛かったまま、生きなければなりません。
ところで、人生で遭遇する出来事において、何が良いことで、何が悪いことでしょうか。社会的な価値判断がそれを決めるのでしょうか。一般にはそうです。しかし、主イエスがくだされる判断は、違います。主イエスは、神の業があなたに現れるために、あなたは、今、ここに生かされているとお語りくださいます。つまり、神があなたに何をしてくださるのか。そこに、あなたのこれからの人生がかかっているのだというのです。
キリスト者も辛いことをたくさん経験します。それでも、前を向いて生きられるのは、運命のいたずらではなく、神こそがわたしのすべてを支配しておられることを知っているからではないでしょうか。
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