さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。(2テモテ2:20-21)
ここでの金や銀の器は、貴い器、価値あるものであり、木や土の器は普通の用途に用いられる器です。器にもそれぞれ別の用途があり、あるものは貴く、あるものはそうではありません。
パウロはここで金や銀の器のように、貴いご用をすることができる者となるように教えています。この世では、金や銀の器は、それ自身の価値で尊ばれています。しかし、キリスト者の場合、器自身の値打ちではなく、その器を用いてくださる主との関係こそが重要です。主は私たちに、貴いことに用いられる器になってほしいと願っておられるのです。
自分の熱心や努力で貴い器になることはできません。貴い器として用いられる条件はただ一つ。「諸悪から自分を清める」ことです。俗悪な無駄話を避け、正しい信仰の教理を保ち、不義から身を引くことです(16〜19節)。
主と教会に仕えて生きる働き人に、パウロはじつに注意深い指針を与えています。私たちも、貴いことに用いられる器として、喜んで自分を献げましょう。主よ、わたしを用いてください!
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