メッセージ: 十字架につけよ!(マルコ15:6-15)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストを十字架刑にしてしまう裁判は、何度読みかえしても不可解な裁判です。今からでも、裁判のやり直しを求めたいくらいの、ずさんな裁きです。
しかし、すべての福音書がこの裁判を記しているのは、この裁判の不当さを訴えて、冤罪をはらすために再審を要求するためではありません。
この裁判で本当に裁かれているのが、いったい誰なのか、誰の罪があばかれているのか、そのことを頭において読む必要があるのだと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 15章6節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
イエス・キリストを裁く裁判は、ユダヤ最高法院によるものと、ローマ総督ポンティオ・ピラトによるものと、二段構えのものでした。それは、ローマ帝国の支配下にあったユダヤでは、自分たちの手で死刑の判決を下しそれを執行をすることができなかったので、確実にキリストを死刑に処するためには、ローマ帝国の手を借りる必要があったからでした。もちろん、イエス・キリストが気に入らないのであれば、刺客を雇ってキリストを暗殺することも出来たかもしれません。しかし、暗殺という方法ではなく、裁判に訴えて自分たちの野望をとげようとするところに、単純な殺人事件以上の恐ろしいものを感じます。心のうちにある悪意を裁判という正義の衣で包み隠してしまうというのは、なんとも恐ろしい計画です。
さて、この裁判を取り上げるピラトにとっては、この裁判はそれほど重大なものではありませんでした。イエスという人物に興味はあったかもしれませんが、この男がどういう処遇になろうとも、ピラトにとってはさほど影響のあることではなかったからです。その上、尋問をしてみたところで、死刑に当たるような明白な罪を見出すことが出来なかったのですから、このことでこれ以上手を煩わされたくないというのが、ピラトの本音だったことでしょう。この時点でピラトの心はイエス・キリストを無罪放免することを決めていたに違いありません。また、そうすることができると思っていはずです。
しかし、事態はピラトの予想とは違った展開になって来ました。ユダヤ人たちは祭りのときの慣習に従って、囚人を赦すようにと要求し始めます。
この時点でも、ピラトはイエス・キリストが無罪放免になるという筋書きを持っていました。それで、民衆の要求に対して、すかさず「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と問い掛けます。
けれども、その答えはピラトにとっては意外なものでした。民衆たちが要求したのは暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒の一人バラバという男だったのです。
このバラバという人物はおそらくは熱心党の一員で、ユダヤ国粋主義者で、今流にいえばテロリストといってもよいほどの人物です。
イエス・キリストをローマ皇帝に対する反逆者と訴えるのであれば、バラバの釈放の要求など出てくるはずもありません。ピラトもそう思っていたことでしょう。しかし、事態はピラトの予想に反して、扇動された群集はバラバの方の釈放を要求したのです。
イエス・キリストを殺害するためには、首尾一貫しない要求をあえてしてしまうところに、人間の罪深さを見る思いがします。人間の罪とは正にそういうものなのです。
たしかに、キリストをローマ皇帝に反逆するものとして訴えでたのであれば、ローマ帝国の転覆を図る暴動で投獄された熱心党員の釈放など求めてはならないはずです。それは自分たちの主義主張に矛盾する要求です。
けれども、見方を一旦変えれば、彼らの要求は首尾一貫しています。イエス・キリストを殺害しようという彼らの計画から見れば、その行動はちぐはぐどころか、最初から一貫しています。人間の正しい心はあやふやで、すぐに色々なことに影響を受けやすいものですが、しかし、罪に染まった心はまっしぐらに悪いことに走っていくというのはなんとも皮肉なことです。
しかし、またしても、ここで予想外のことが起ります。
この裁判がユダヤ人たちの「ねたみのためだと分かっていた」ピラトが、しかも、「いったいどんな悪事を働いたというのか」とイエスの無罪を確信していたピラトが、こともあろうに、「群衆を満足させようと思って」、イエス・キリストを十字架に引き渡す判決を下してしまいました。
キリストを十字架にかけようとするユダヤ人たちの悪意は最初から明白でした。しかし、その裁判を受理したピラトもまた、結局は正義と公平ではなく、「群衆を満足させよう」という動機から判決に踏み切ってしまったのです。
何のためにピラトはここまで群集に気を使い、顔色をうかがわなければならないのか不思議に思います。
ヨハネによる福音書によれば、扇動された群衆はピラトに対して、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と迫ったとあります。なるほど、そこまで言われれば、民衆の言いなりにならざるを得ないでしょう。ピラトも自分の身に危険が及ぶとなると、あっさりと正義も公平も捨ててしまったのです。
この裁判を通して、結局のところ、最も鮮明に描かれるのは、人間の奥底に潜む深い罪の問題です。それは、この裁判記事を読むわたしたち一人一人も例外ではありません。しかし、この罪こそイエス・キリストが背負って解決してくださる罪にほかなりません。