メッセージ: ゲツセマネの祈り(マルコ14:32-42)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
エルサレムの東側、ケデロンの谷を渡ってしばらく行くと、きょうの話の舞台となるゲツセマネの園があります。その場所は正確には分かっていませんが、今日聖フランシスコ修道会のゲツセマネ教会のそばにある古いオリブの木が生えた小さな園がその場所であるとされています。そこでひとり孤独に祈られたキリストの祈りをゲツセマネの祈りと昔から呼びならわしています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 14章32節〜42節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
弟子たちと共に過ごした最後の晩餐の席を後にして、一同は賛美の歌を歌いながらエルサレムの城壁を出て、東の方オリブ山に向かいます。
ゲツセマネとは「油絞りの場」という意味ですから、その昔から、そこでオリーブの実から油が取られていたのでしょう。この場面のすぐ後で、裏切り者のユダはイエス・キリストを捕らえようとする者たちを先導して、この場所にやってきます。裏切り者のユダもキリストがこの場所にいることを知っているくらい、イエス・キリストとその一行にとっては馴染みの場所であったということができます。
さて、弟子たちと共にこのゲツセマネの園にやってきたイエス・キリストは、特別にペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を伴って祈りに専念しようとなさいます。
そのときのイエス・キリストの様子と言葉が記されていますが、それは、今だかつて見たことも聞いたこともないような、深い悲しみと恐れの様子です。
イエスはひどく恐れてもだえ始めたと記されています。また一緒にいた三人の弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」と漏らしています。
それほどまでの恐れ、それほどまでの悲しみとは一体なんだったのでしょうか。それは、イエス・キリストがこれから引き受けようとしている十字架の苦しみを予見してのことです。十字架の刑罰はローマの処刑方法でした。しかし、イエス・キリストが自ら進んで引き受けようとしているのは、ローマ帝国の処刑ではなく、この十字架に象徴された人の罪に対する神の怒りと罰なのです。救い主として、罪人の身代わりとなって受けようとしている神の怒りと罰とを思うとき、ひどい恐れと悲しみが襲ってきます。それはイエス・キリストが弱虫だったからではありません。神の怒りを受け止めることなど、どんな被造物にも耐えられることではないからです。それほどまでに恐ろしい神の怒りを思ってのことです。
さて、このゲツセマネの祈りの場面から、二つのことを見ていきたいと思います。一つはこの極限の状況の中で、イエス・キリストがどう祈ったのかということです。もう一つは、この場に与っている弟子たちの態度です。
先ずはじめに、イエス・キリストの祈りを見てみましょう。ここにはキリストの祈りの言葉が短く記されています。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」
罪なき神の子イエス・キリストにとっては、自分の罪のために神からの怒りと罰を受けるなどということは絶対にありえないことです。キリストにとっては神は親しみと信頼をもって「アッバ、お父さん」と呼びかけることのできるお方です。その神の御子が裁きを受けること自体耐えがたいことです。たとえイエス・キリストが「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」のだとしても、その使命を成し遂げることは恐れと悲しみを抜きにしては出来ないことです。
イエス・キリストはその悲しみと恐れとを父なる神に率直に訴え祈っています。ただ単に「み心がなりますように」と祈るのではありません。心の奥底から出た願いを吐き出しています。
「この杯をわたしから取りのけてください」
心の中の願いを吐き出すこと、これは絶対の信頼関係がなければ出来ないことです。
しかし、そのすぐ後で、イエス・キリストは「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とつけ加えます。自分の思いを率直に述べた後で、今度は神の答えがどうであるのか、素直に聞き取ろうとする心構えです。
祈りとは、最初から神のみ心がなりますようにと祈ることでもなければ、また、自分の一方的な願いを言い放つだけでもありません。自分の心の奥底にある願いを神の御前に明らかにし、神の御心がどこにあるのかを尋ね求め、その神のみ心に従おうと願うことです。
さて、このような魂の奥底から搾り出された祈りを前にして、三人の弟子たちの態度はどうだったのでしょうか。この三人が選ばれたのも、元はといえば、イエス・キリストと祈りを共にするためだったはずです。キリストと共に苦悩し、キリストと共に神のみ心を尋ね求める祈りをささげることが期待されていたはずです。
しかし、彼らは三度も眠りに陥って、イエス・キリストの祈りを夢心地にしか聞いていませんでした。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」というイエス・キリストの言葉も彼らの耳には届いていなかったようです。しかし、それは決して今に始まったことではありませんでした。
イエス・キリストが弟子たちに対して「あなたがたは皆わたしにつまずく」と警告した時に、誰一人として、その警告を真剣に受け止めてはいませんでした。誰もが自分は大丈夫だと安心しきっていいました。
しかし、まさにこの傲慢な思いと態度の罪人のために、イエス・キリストはご自分の命を身代わりに献げようと、苦悩を引き受けられたのです。
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