メッセージ: 裏切りの準備(マルコ14:10-11)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書を読んでいて、分からないことがたくさんあります。どうしてそうなのか、牧師や聖書学者でさえ答えられないことはいくらでもあります。きょうこれから取り上げようとしている裏切り者のユダの行動も、何故そんな行動に出たのか、さっぱり分かりません。推理小説なら、動機は一体何なのか、名探偵がいろいろと推理して見せるところでしょう。おそらく新約聖書の中でイスカリオテのユダの行動ほど不可解なものはないでしょう。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 14章10節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
12人の1人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
イスカリオテのユダの名前は、マルコによる福音書の中に早くから登場して来ました。3章に記された十二弟子の名前のリストの中に初めて名前が記されています。しかも、初めて登場する時から「このユダがイエスを裏切ったのである」と紹介されています。もちろん、マルコによる福音書が書かれたときには、イスカリオテのユダがイエスを裏切ったことはキリスト教会の中では有名な事実だったことでしょう。
ヨハネによる福音書は別として、ユダの名前は十二弟子の名前がリストアップされるとき初めて登場しますが、実はそれ以来、きょうの個所までその名前が登場することはありません。いわゆる受難物語と呼ばれる個所に来て、このときのためとばかり、再び名前が登場してきます。
もっとも、十二弟子の中で、福音書の中に一回だけしか名前が登場することのない弟子もいるくらいですから、イスカリオテのユダはそれでも、名前の登場回数の多い弟子ということができると思います。ただ、ユダの担った役割のことを考えると、やはりその名が多く登場することはユダにとって不名誉なことです。
それにしても、ユダが最初から12人の弟子に加えられ、きょうの個所に至るまで、名前こそは出てきませんが、12人の弟子のメンバーでありつづけたことは紛れもない事実です。福音書の中に何度も「12人」という数字が繰り返されます。決して、ユダは最初から数に入っていなかったのではありません。むしろ最初からイエスの弟子として選ばれ、他の11人と同じように、いつもイエス・キリストのそばで訓練を受け、他の11人と同じように神の国の宣教のために周りの町々村々に派遣されていきました。
もし3章の19節で「イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」とあらかじめ紹介されなかったとしたら、きょうのこの個所に至るまで、福音書の読者はユダと他の弟子の違いを言い当てることは出来なかったことでしょう。たとえば、タダイという弟子の名前が十二弟子のリストに挙がっていますが、もし、ユダが裏切り者であることを知らされずに福音書を読んだとしたら、きょうのこの個所に至るまでの間に、タダイとイスカリオテのユダとの違いを言い当てることの出来る人は誰もいなかったことでしょう。それくらい、イスカリオテのユダが取ろうした行動は不思議です。
マルコによる福音書には唐突にも「12人の1人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」とだけ記されます。何故、ユダがそのような行動に出たのか、少しも記されていません。
では、他の福音書ではどうかというと、やはりはっきりした理由や動機が記されていません。ただ、ルカによる福音書には「イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」(ルカ22:3)とだけ記しています。同じように、ヨハネによる福音書では「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(ヨハネ13:2)と記しています。ユダの裏切りのおおもとでは、サタンが働いていたということを聖書はほのめかしています。しかし、それでユダに責任がないといっているのではありません。
けれども、後に使徒たちはイスカリオテのユダが抜けて、11人になってしまった弟子団を補うために1人の使徒を補充して12という数字を保とうとしたとき、ペトロはユダについてこう言っています。
「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」(使徒1:16)
つまり、ユダの内面にある動機にはまったく触れず、ただ、聖書の言葉が実現するための出来事であったということだけが強調されています。
裏切り者のユダについて、人間として思いめぐらせたいことはいっぱいあるかもしれません。しかし、残念ながら、聖書にはこの人間の関心を満足させるようなことは何も書かれてはいません。
むしろ、マルコによる福音書14章から始まるキリストの受難物語の中で展開される神の不思議な救いのご計画にこそ、わたしたちの目は注がれなければなりません。
一方ではイエス・キリストを殺そうとたくらむ祭司長たちや律法学者たちがいます。彼らにとってはキリストを殺すことは自分たちの手の内にあることと、そう確信していたに違いありません。しかし、そのような彼らの企みも、神の救いのご計画にとってはけっして予想外の事態ではなかったのです。
他方、先週学んだように、別の意味でイエス・キリストの死を予感して、葬りの準備を知らずして行った1人の女性がいました。その彼女もまた、自分の思いをはるかに超えたところで、神の救いの業に参加していたのです。
そして、きょう登場するイスカリオテのユダはまた別の意味でイエス・キリストの葬りを遂行する手伝いをしていました。祭司長たちや律法学者たちにとって、このユダの申し出は、渡りに船であったに違いありません。
しかし、すべてが自分たちの手の内にあると思っている事柄が、実はすべて神の御手のうちにあるというところにこそ、キリストの十字架による救いの不思議さと確かさがあるのです。人の罪深い行いを通してさえも、神はそれを人間の救いに至るようにと変えてくださるのです。
ここでわたしたちが関心を寄せるべきことは、何故ユダが裏切ったかではなく、人間の罪深い行動にもかかわらず、いえ、人間の罪深さを包みこんで、神の救いの計画が実現されていく、その不思議さと確かさにこそ目を留めなければなりません。
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