聖書を開こう 2019年3月14日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  最後まで耐え忍ぶ(マルコ13:12-13)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 世の終わりやキリストの再臨、最後の審判などについての教えを、キリスト教会では終末論と呼んでいます。こう聞いただけで、何だか終末論というのはあまりありがたくないような、むしろ、恐ろしいもののように感じられてしまいます。しかし、本来、終末論というのは慰めと希望に満ちたものです。なぜなら、罪の世界に終止符が打たれ、悲しみや苦しみから完全に解放されて、神の正義と平和が支配する世界が訪れることを約束しているからです。

 けれども、終末を語る言葉には、やはり、わたしたちが聞いて恐れを抱いてしまうものもあることは否めません。

 きょう取り上げようとしているイエス・キリストの言葉は、一読した時に、希望よりも恐ろしさの方が先立つかもしれません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 13章12節と13節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

 今まで、マルコによる福音書の13章に記されたイエス・キリストの終末論を2回にわたって取り上げて来ました。そのうちの1回は、新天新地を生み出す「産みの苦しみ」として起こる、様々な現象のことが言及されました。2回目の学びでは、身の回りで起こる現象ではなく、まさに弟子たちの身に起こる出来事が取り上げられました。

 さて、きょう取り上げる12節の言葉…「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」という言葉が、一見、どこに繋がってくるのか、戸惑いを覚えるかもしれません。

 1回目の話の流れの中で理解するとすれば、ここに出てくる家族の分裂は、弟子たちの身の上に降りかかってくる事件ではなく、この世の中の家庭の崩壊という風にも読めなくはありません。世の終わりが近づけば近づくほど、家族が家族として機能しなくなってしまう。兄弟同士が、あるいは親子同士が相手を死に追いやる恐ろしい世界です。

 そう思って、今の世の中を見渡してみれば、幼児虐待、家庭内暴力、兄弟同士の喧嘩のなれの果ての殺人が横行している時代です。もっとも、そういうことは、どんな時代にもあったことといえば、あったともいえます。

 口減らしのための子供の間引きや姥捨て山はもう何百年も前の日本にあった話です。それが特別に終末の時代の前触れとなるような出来事とはいえないかもしれません。

 しかしまた、マタイによる福音書の中でイエス・キリストがおっしゃっているように、世の終わりの時は「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ24:12)時代ですから、家族同士の殺し合いも起こるのかも知れません。

 けれども、前回の学びとの関連で、この12節の言葉を読むと、また別の理解も可能です。

 前回学んだのは弟子たちの身の上に降りかかって来るしるしでした。それは、地方法院に引き渡されて、総督や王たちの前で福音の証をさせられると言うものでした。

 その流れの中で12節を読むと、そこに記されているのは、兄弟が兄弟を死に引き渡す、父親が息子を死に引き渡すという内容です。つまり、ユダヤの地方法院に密告し、キリスト教から引き離そうとする動きが、ほかならない家族のうちから起こると言う予告です。

 その次の13節で「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」とキリストはおっしゃっているのですから、12節で言われていることは、どこか余所の家庭で起こることでなく、まさにキリストの弟子たち、クリスチャンがいる家族の中で起こると言うことなのでしょう。

 これは、今までイエス・キリストが語られた終末についての教えの中では、考えただけでも身の毛のよだつような恐ろしい内容です。

 けれども、キリスト教会の歴史を振り返ってみれば、そのようなことは繰り返し繰り返し現実におこっていることです。特にキリスト教が禁止されている国では、家族の中にクリスチャンが誕生することは許されないことですから、家族の者が率先して密告したり、殺害の手を下したりということもあるのです。

 このようなことが歴史の中でそんなに繰り返し起こることであるとすれば、そもそも、終末のしるしとはなり得ないとも言えるかもしれません。しかしまた、裏を返せば、そのような殉教の血の上に教会の歴史が終末のときに向かって進んでいくのだとも言えます。

 さて、13節は、クリスチャンがキリストのゆえに受ける憎しみについて記されています。これは終末のしるしというよりは、ある意味で、いつもがそうなのかもしれません。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(ヨハネ15:18)とイエス・キリストがおっしゃる通りです。

 ペトロもまた「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(1ペト4:12)と述べています。むしろ、キリストの受けた苦しみにあずかるのがクリスチャンの歩みなのかもしれません。キリストの名のゆえに、つまり、クリスチャンであると言うただそれだけの理由で苦しみにあうというのは、何とも納得の行かないことのように思われるかもしれません。けれども、それは避けて通ることのできないことなのです。

 「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とイエス・キリストは約束してくださっています。この言葉を励みに、この言葉に支えられた歩みができる人は幸いです。

 もっとも、多くの人は、この言葉に希望を見出すよりも前に、果たして自分が最後まで耐え忍ぶことができるだろうかと心配の方が先に立ってしまうかもしれません。

 しかし、心配するには及びません。キリストをしっかり掴んで離さないわたしたちの手を、しっかりと握り返しているキリストの手があるからです。

 パウロがフィリピの信徒に書き送っているように、何とか捕らえようと手を伸ばしているわたしたちを、キリストご自身が捕らえてくださっているのです(フィリピ3:12)。

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