メッセージ: 終末の日までの道のり(マルコ13:9-11)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「世の終わり」とか「終末」と言う言葉に対して、とてもネガティブな思いを抱くと言うのは自然なことかもしれません。本当に世が終わってしまうのだとすれば、何の希望もありません。まして、世が終わるに先立って、様々な艱難や苦しみが伴うのだとすれば、恐怖心以外のなにものも出てこないと思います。
けれども、新約聖書に出てくる終末世界についての教えを読んでいると、必ずしも恐ろしいだけの終末論ではありません。終わりの先に何も無いような、そんな終末論では決してありません。また、その終末世界に向かうクリスチャンの歩みが、ただただ、悲惨で耐えがたいものだとも言ってはいません。
きょうの聖書の個所も、終末についてのイエス・キリストの教えです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 13章9節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
前回もお話したとおり、マルコ福音書の13章は終末に関するイエス・キリストの教えがまとめて記されています。世の終わりの捉え方にはネガティブな面もポジティブな面もあると思いますが、イエス・キリストは何よりも終末の時代に先立って起こるネガティブな諸々の前兆を、「産みの苦しみ」というポジティブな言い方で表現されました。破壊のための苦しみはただの徒労ですが、産みのための苦しみは命の誕生と言う喜ばしいことのための苦しみです。そこまでのことを前回はお話しました。
さて、今回学ぶ個所には、自分の身の回りで起こる出来事ではなくて、まさに自分自身に起こる出来事が記されています。といっても、直接にイエス・キリストがお語りになっているのは弟子たちですから、それは第1には弟子たちの身に起こることです。しかし、間接的には世の終わりに向かうすべてのクリスチャンもここには何らかの意味で含まれているのでしょう。
では、どのようなことが起こるのか…それは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれるという、あまり起こって欲しくはないことです。地方法院も会堂もユダヤ人の共同体の組織です。ですから、ここで、イエス・キリストが念頭においていらっしゃるのは、ずっと遠い将来のことではなく、いまここにいる弟子たちにかかわることです。
キリストがあえてこのことをお語りになったのは、何か思いがけないことが起こったかのように、弟子たちが怯んでしまわないためであったのでしょう。覚悟が出来ているのと、不意に襲われて慌てふためくのとでは、大違いです。
けれども、キリストがこのことを弟子たちにお語りになったのは、ただ、腹を決めて覚悟させるためだけではありません。どんな苦しみでも、その意味や目的がわかる時には、その苦しみも少しは軽く感じることのできるものです。
弟子たちが地方法院や会堂に引き渡されるのは、ただ苦しむことが目的なのではありません。それはやがては総督や王の前での弁明や証言の機会に繋がっていくと言うのです。
たとえば、新約聖書の中の手紙をほとんど書いたパウロの場合、ユダヤ人たちに捕らえられたことがきっかけで、総督フェリクスやフェストゥスの前で弁明の機会を与えられたり、アグリッパ王の前で話す機会が与えられました。やがてはローマ皇帝に上告する機会さえも与えられたのです。
皮肉なことかもしれませんが、初期の頃のキリスト教会やクリスチャンのことが、教会以外の人たちが書いた文書の中に登場するのは、決まって裁判にかかわる事件の中でです。それは彼らがローマ社会の風紀を乱す結社として、犯罪人扱いにされていたからにほかなりません。しかし、そのようなかたちで、彼らにはキリスト教信仰について公の場での発言の機会が与えられたのです。
考えても見れば、王や皇帝の前で話しをする機会など、滅多に与えられるものではありません。このような形を通して、王や皇帝の耳にもキリスト教の信仰が伝えられていったのです。
主イエス・キリストはおっしゃいました。
「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」
世の終わりが来る前に、キリストの弟子として、どんな機会にも福音を述べ伝えることが求められています。それは、時が良くても悪くてもです。キリスト教への反対勢力が上回る時、それが返って福音を述べ伝える絶好のチャンスへ繋がるとキリストはおっしゃっているのです。
それだからこそ、反対勢力のために八方塞になったなどとうろたえる必要はありません。むしろ、福音を語る絶好の機会が到来したと思うべきなのです。
しかし、たとえそうであったとしても、キリスト教信仰について堂々と語る勇気など、誰もが備えているとは限りません。捕らえられてまで福音を語らなければならないとなれば、何をどう語ったらよいのか、よほどの自信家でなければ、不安です。
けれども、イエス・キリストはおっしゃいます。
「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない」
イエス・キリストは「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない」とおっしゃいます。取り越し苦労というのは、自分でも背負いきれないことを想像して、思い煩うことです。自分にできないことは神におまかせするしかないのです。
そこで、キリストは続けてこうおっしゃっています。
「そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」
福音を語る機会ばかりではなく、何をどう話したらよいか、そのことも聖霊が備えてくださるとおっしゃっています。世の終わりに向かうわたしたちに求められているのは、この聖霊に信頼して、機会の訪れるたびに福音を語ることなのです。
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