聖書を開こう 2019年2月21日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  まことの敬虔さ(マルコ12:38-44)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「敬虔」と言う言葉があります。その意味は「深く敬って態度をつつしむさま。特に、神仏につつしんで仕えるさま」を表します。たとえば「敬虔な祈りをささげる」という使い方をします。しかし、この「敬虔」と言う言葉が、具体的にどんな人に当てはまるのか、と言うことを考えてみると、なかなか難しいような気がします。特に人間の目に敬虔に映ることと、神の目に敬虔に映ることとは、必ずしも一致していないことがあるからです。自分自身が敬虔な人間であるかどうかは、自分が一番よく知っているはずですが、しかし、それとても当てにならないことがあります。

 きょう取り上げる個所には2組のとても対照的な人物が登場してきます。どちらがより敬虔な生き方をしているのか、傍目からではすぐには分かりません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 12章38節〜44節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」  イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、1人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 きょう取り上げる個所には律法学者が名指しで非難されています。律法学者と言うのは、この福音書の中に既に何度も登場して来ましたが、モーセの律法の専門家でした。その多くはファリサイ派に属する律法学者であったと考えられています。

 この律法学者たちは、普通に考えれば、敬虔な人々の集団です。聖書を学び、聖書の教えを実際生活に適用して生きることを人々に教えているからです。もちろん、人々に教えるばかりではなく、可能な限り、自分自身も律法に従って生きるように努力していた人たちです。

 その律法学者を、イエス・キリストが名指しで非難するとはどういうことでしょうか。

 イエス・キリストは律法学者たちが、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望んでいることを嘆いておられます。もちろん、長い衣を着ることには意味があるのかもしれません。そうでなければ、誰が律法学者か分からないからです。会堂や宴会の席で、律法学者が他の人々に紛れていたのでは、場合によっては混乱を来たらしてしまうこともあるでしょう。

 長い衣も、上座に着くことも、はじめはもっともな理由があって始まった習慣にちがいありません。しかし、それが習慣化され、神の前に敬虔に振舞うことよりも、人からの注目を集めることに心が動く時に、それはもはや敬虔のしるしではなくなってしまいます。そこにこそ落とし穴があります。

 敬虔さが形だけのものになって、結局は本当に助けを必要とする人さえも食い物にしてしまうようでは、もはや神の前に言い逃れは出来ません。

 さて、このような律法学者の形骸化した敬虔さとは対照的に、1人のやもめのことが取り上げられます。

 この1人のやもめがどれほど敬虔な生き方をしているのかは、人目にはだれも計り知ることが出来ません。ほかの多くの参拝者と同じように神殿にやってきて、そこに設置されている献金箱にお金を投げ込んでいるからです。いえ、その身なりを律法学者の長いくて白い衣に比べてみると、そのみすぼらしさだけでも、人からの評価は低かったかもしれません

 まして、その献げたものがたったのレプトン銅貨2枚であることを知れば、だれしも、このやもめのことを取り立てて立派だと思うものはいないでしょう。ちなみにレプトン銅貨とは一番小さなお金で、その価値は取るに足らないものだったからです。

 しかし、献げたレプトン銅貨2枚はこのやもめにとっては生活費のすべてでした。いえ、それだけだったら、ただ単になけなしのお金を見境もなく投げ込んだともいえるかもしれません。

 しかし、イエス・キリストがこのやもめを見る目は違いました。献げられたレプトン銅貨2枚の中に、このやもめ自身が神に対して抱いている敬虔な心を見て取ったからです。お財布の中身の全部か一部かという、ただ、それだけのことではありません。問題は、その行動が神への信頼から出たものであるかどうか、と言うことです。

 このやもめには、決して全額を献げて神を試そうなどという思いは微塵もありません。全部献げれば、きっと神さまがどうにかしてくれるという、安易な下心もありません。

 ただただ、神への信頼と神への感謝とだけから、献げられたレプトン銅貨2枚だったからこそ、敬虔なささげものだったのです。

 真の敬虔さとは、結局は、神に向かうその人の内側から出てくるものです。神に向かうべきものが、少しでも、違う方向へそれてしまうとき、それは敬虔さからは程遠いものになってしまうのです。

 イエス・キリストがこの2組のまったく対照的な人々を取り上げたのは、他でもなく弟子たちに対する教育のためであったことはあきらかです。

 誰の心のうちにも、律法学者のような危険は潜んでいます。彼らは敬虔な態度と隣り合わせであるからこそ、自分自身の態度が神によってどんな風に見られているのか、気がつきにくいのです。熱心な信仰者であると自認しているものほど、自分の心のあり方に気をつけなければなりません。

 見習うべきなのは、言うまでもなく、やもめの態度です。しかし、それはやもめのとった行動を真似るだけでは得ることのできるものではありません。神への心からの信頼がなければ、また、神への心からの感謝がなければ、ほんとうに敬虔深い振る舞いは出来ないのです。

 一人一人が、今、心の中がどうであるのか、そのことが問われています。

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