洗礼について考え始めた求道者の方々が、ためらいを感じる理由の一つに、「今の自分の信仰を一生涯守り通すことができるだろうか」という心配があると思います。試練・迫害に会ったらどうだろう、太平な日々で信仰が衰えることはなかろうか、と心配はつきないものです。
もちろん、私たちは、十分な決心なしに、キリスト者となることはできません。「自分の十字架を負うて私について来る者でなければ、わたしの弟子となることはできない」とイエスさまが言われた通り(ルカ14:27)、洗礼を受ける者は、キリストのゆえに受ける苦しみを覚悟しなければなりません。
けれども、それでは、自分の信仰の強さを検討してみて、一生涯従い通せる見込みがついたから洗礼を受けるのかというと、そんな自信家の信仰者もなかなかいないと思います。
むしろ、私たちは、私たちの信仰を一生涯守り通して下さる神さまに信頼して、洗礼を受けるのです。
洗礼式の最後に「宣言」という項目がありますが、この時に受洗者を励まし慰める御言葉が読まれます。「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう」(1ペテロ5:10-11)。
私たちは、「しばらくの苦しみ」を覚悟しなければなりませんが、私たちの信仰を守り、不動のものにして下さるのは、「あふふる恵みの神」のお働きなのです。
このように私たちの信仰を守り通して下さる神さまの恵みを、堅忍の恵み、といいます。
ウェストミンスター小教理問答書によりますと、イエスさまの救い主としての職務には、預言者・祭司・王という三つの側面があります。イエスさまは、人となられた「神の言」として神さまの御心を示す最高の預言者です。また、ご自分を犠牲としてささげ、私たちの罪の償いをつけて下さり、今、神さまの右で私たちのためにとりなしておられる最高の祭司です。それと共に、イエスさまは、王である救い主です。私たちを治め、支配し、信仰者としての私たちの歩みをつまずかせるすべての危険や敵から守って下さる王なる救い主です。
私たちがイエスさまを信じるということは、このように、人間のすべての弱さ・醜さ・欠乏から私たちを救う力を備えた方として、イエスさまを救い主として信じることなのです。当然それには、心の変りやすい不真実な私たちを、助け守るために、悪と戦って下さる王なるイエス・キリストへの信頼が含まれているのです。
それでは、実際に洗礼を受けながら、教会から離れていく人々をどう考えたらよいのでしょうか。二つの場合が考えられると思います。
第一は、その人が本当の親交を持っていなかった場合です。自分を導いてくれる人の人柄に魅かれているだけだったり、聖書の言葉に感動しただけだったり、何となくムードにひかれただけだったりで、イエス・キリストに結びつくという肝心の点が抜けたままキリスト者である場合があります。ヨハネは、教会を離れたある人についてこう語っています。「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。…出て行ったのは、元来、彼らがみな私たちに属さない者であることが、明らかにされるためである」(1ヨハネ2:19)。こういう場合、その人は、堅忍の恵みを、もともと受けていないのです。
第二の場合があります。それは、その人が教会を離れ、信仰を捨てたかに見えても、神さまがその人のうちに信仰の火種を残しておられる場合です。ペテロは、イエスさまが十字架につけられる前の夜、自分はイエスを知らないと、三度も人々に語りました。彼はイエスを裏切りイエスを捨てたのです。しかし、そのことの起こる前に、イエスさまは、まは、ペテロの信仰がなくならないように祈って下さっていました。(ルカ22:32)。ですから、彼は、やがて立ち直り、教会の柱となることができたのです。つまづきの時も彼の信仰は火種として残っていたのです。
イエスさまにひとたび結びついた人を、イエスさまは最後まで守り通されます。たとえその人の信仰が弱まり、一時教会から離れることがあっても、イエスさまは、神の御前でとりなしをなさる大祭司として、その人の信仰がなくならないように祈り、とりなし、信仰の火種を残しておかれます。
私たちは人々の永遠の運命について軽々に判断できません。その人の死の直前まで神に立ち帰るチャンスが残されているのです。そして、死という大きな試練を目前にしたその人の内に何が起こっているのか、誰も断定できません。主イエスに真実に結びついた人々を、主が永遠まで守り通されることを、否定するような現実は存在しないのです。
「あらゆる人を偽り者としても、神が信実なものとすべきである」(ローマ3:4)。この神の真実への信頼が求められているのです。
※山中雄一郎著「キリスト教信仰の祝福」小峯書店(1983年1月、現在絶版)
※月刊誌「ふくいんのなみ」1981年1〜12月号にて連載