聖化とは、罪深い私たちを、愛ときよさへと造り変えて下さる神さまの恵みを表す言葉です。
より良い自己を形成したいという願いは、誰でもが持っている基本的な願いでしょう。良い友を求め、文学に親しみ、知識や教養を広げようとする私たちの行動のかなりの部分が、自分を豊かにし、より良い自己を形成したいという願いに基づいていると思います。
けれども、少年期以上に純真な心の壮年期を迎える人や、青年期以上に魅力的個性ある老年期を迎える人がどれほどいるでしょうか。知識や教養を広げようとする私たちの行動のかなりの部分が、自分を豊かにし、より良い自己を形成したいという願いに基づいていると思います。
けれども、少年期以上に純真な心の壮年期を迎える人や、青年期以上に魅力的個性ある老年期を迎える人がどれほどいるでしょうか。知識や教養という付属物は増し加えることができても、愛や誠実さやきよさという人格の中心的部分は一向に進歩しないのが私たちの現実ではないでしょうか。人の評価はどうであれ、神さまの評価の前に立たされる時、私たちは一生涯をかけても依然として、神をも人をも愛する力のない、心冷たい惨めな罪人に過ぎないのです。
聖書は人間を罪の奴隷だとしています。それも、神からの刑罰の結果として、罪の奴隷とされたのだとしています。神に逆らい罪を犯した人間を、神さまは罪の力の下に閉じ込めてしまわれました。私たちが現実に犯す罪は、それ自体、生まれながらの罪人である私たちへの神のさばきの現れなのです。神は、私たちを、罪の奴隷という懲役刑に服させておられるのです。
ですから、人間には、本当の自由がありません。人をねたみ、恨み、悪口を言う時は、私たちは思いのままに行っている気がしますが、ひとたび、人を愛することを願い、ねたみや恨みや悪口を捨てさろうとする時、自分には全くその力がないことに気づかされます。人が陥っている罪の状態は、矯正することのできる単なる欠陥なのではありません。全能の神の御力のもとで、本当の自由を剥奪され、善を行うことに関しては全くの無力状態に投げ出されているのが、私たちの実情なのです。
ですから、聖化という神さまの恵みは、罪のゆるしという恵みを抜きにして与えられるものではありません。イエス・キリストは、私たちの身代わりとなり、十字架の上で、罪深い私たちへの神の刑罰をことごとく引き受けて下さいました。このイエス・キリストを信じる時、私たちのすべての罪が赦され、罪のゆえの刑罰のすべてを免れることができるものとされます。この時に、神さまは、私たちを罪の奴隷状態から解放して下さり、愛ときよさへと私たちを造り変える御業を開始して下さるのです。
もともと、倫理の基礎は愛です。しかし、神の怒りとのろいのもとにある人間に、神を愛せるはずがありません。御自分の独り子をも私たちのために十字架にかけて下さった神の愛にふれ、罪のゆるしの恵みにあずかる時はじめて、私たちの内に、ひとかけらでも、神を愛する思いが湧き起こされます。また、このような神の愛をそそがれてはじめて、私たちも、お互い同士の罪を赦しあい、神に愛されている罪人仲間同士として愛しあう思いを、ひとかけらでも抱くことができるようにされます。そして、私たちが信仰者として、日々聖書を読み祈る時、神さまは、御言葉を通し祈りを通し、私たちをムチ打ち励まし慰めて、本当に神の子らしい神の子の姿が私たちの内に完成するまで導いて下さるのです。
このような聖化の歩みは、たちどころに完成されるものではありません。それどころか、一生涯をかけた歩みの晩年に至っても、神の子の完成像からみれば、達し得るところは、わずかにしか過ぎません。死の時にはじめて、神さまは私たちの心をきよめて下さいますが、それまでは、どのクリスチャンも罪赦された罪人に過ぎません。
イエスさまは弟子たちに、「私たちの罪をお赦し下さい」と祈るよう命じられました。この祈りをしなくてもすむようなきよい弟子は、この世には存在しません。むしろ、聖化の恵みを受ける信仰者は、道徳感覚についても鋭敏にされますから、一層はっきりと自分の罪に気づき、より切実に罪の赦しを願い求める者とされます。聖化の過程は、罪の自覚の過程であり、神の前でのヘリ下りの過程でもあるわけです。
「それでは、信仰を持っても持たなくても、罪に悩む点では変わらないわけだ」と思う方がいるかも知れません。
決してそうではありません。第一にキリスト者は、罪との戦いがやがて勝利に終わるという希望をもって、罪に悩むことができます。これは絶望の悩みではなく、希望の悩みなのです。第二に、キリスト者は、日々、キリストの十字架の下に立ち返ることができます。罪を切実に感じれば感じるほど、その罪を赦してくださる神の十字架の愛に気づき、感謝と喜びとをもって罪との戦いに立ち向かうことができます。聖化とは十字架からの独り歩きではなく、十字架に一層強くより頼む信仰の深化が中心なのです。
※山中雄一郎著「キリスト教信仰の祝福」小峯書店(1983年1月、現在絶版)
※月刊誌「ふくいんのなみ」1981年1〜12月号にて連載