おはようございます。平和の君教会の山下です。
昨年の夏は大変な酷暑で、気象台では「命の危険を伴う暑さ」と呼び、熱中症への注意を度々喚起していました。加えて豪雨災害が西日本を見舞い、ひどい季節でした。けれども美く壮大な星空を眺める機会もありました。ちょうどお盆の頃、九州阿蘇で開催された修養会に参加しました時、満天の星空を見上げ感動しました。天の川や夏の大三角形、大接近の火星、そして三大流星群の一つペルセウス座流星群がピークを迎える時で大きな流れ星を2つ発見しました。もちろんお願い事をすることはしませんでしたが。
今日の箇所(詩編8:4-6)は、そのように夜空を見上げ、神様のお造りになられた月や星を観て歌ったものでしょう。星空だけは、昔も今もそう大きく異なることはありません。むしろ文明の光が少なかった分だけ、より一層明るく輝いて見えたことと思います。どんなだったか、そこに立って見上げたい位です。
しかしこの詩編の作者は、星の輝きや星座の美しさに見とれたのではなく、自分自身を含めた人間の創造の素晴らしさに目を留めているのです。聖書は、主なる神様が私たち人間を神に似せ、特別な愛を込めてお造りになられた、と教えています。それは何よりも神との交わりを持つことの出来る唯一の被造物として人間を造られたことを意味します。その神様の深いみ心、み業を思う時、そこから遠く隔たっている私たちの姿に気付かざるを得ません。
きょうの詩編の8編の5節6節にこう記されています。「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ」。そう記されています。それは、神の姿に似せて造られたと同時に、人間が自分の分を超えて思い上がって神様をないがしろにしないようにとの制約を設けられているからです。
このみ言葉は、後に「イエス・キリスト」を指し示す預言として、父なる神様に対し私たち罪人の罪を身代わりとして受け取って下さり、私たちの救いを実現する救い主としてやがておいでになられる約束、と受け止めました。文豪のドストエフスキーは、彼の作品においてピストル自殺する主人公に「どうしてこんなに自然は美しいのに、人間の心は汚れ罪に染まっているのか」と言わせています。
その大自然も今日少しずつ、人間の罪によって変質し、凶暴化しているように思われます。数十年に一度の集中豪雨、スーパー台風、巨大地震など、もはや自然災害ではなく、はっきりと人災と呼んでいいのではないか。私たちはもう一度、この神様の秩序に立ち帰っていかなくてはなりません。
己が欲望を満たそうとして他の人や国々を無視し、自分にかしずかせる罪に気付き、神のお造りになられたこの世界を次の世代につないでゆく責任と使命があることを覚えたいのです。かけがえのない一人ひとりの命と、他の被造物を大切に思いやり育み守っていく、神を畏れて生きる人間本来のあり方へと立ち帰らせて下さるようにと願います。