おはようございます。平和の君教会の山下です。
皆さんは、祈りの効果について考えたことがあるでしょうか。分かり易く言えば、果たして祈りは聞かれるのか、聞かれないのかということです。何か占い師や八卦見(はっけみ)のように思われるかも知れません。例えば私たちの人生において、深刻な場面、難関学校の受験、家族の誰かの大きな手術など、何か重大な決断をしないといけない時、私たちは祈らざるを得ません。それらの祈りは、必ずしも聞かれる時ばかりではないでしょう。クリスチャンも同様であって、神様から祈りなさいと教えられていても、結局祈っても何も現実は変わらず、仕方ないと諦めてしまうことがあります。
イエス様も今日のところで「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とおっしゃっているように、祈ろうか、いや祈らなくても良いのではないか。そう揺れ動く私たちの思いをよくご存じの上で、祈り続けなさいと命じておられます。どうしてなのでしょうか。
そのことを教えるためにイエス様は、奇妙なたとえをお語りになられました。それは「不正な裁判官」というものです。裁判というのは、事の真偽を見分け、不当に権利を抑圧されている人の権利を守るためです。ところがここに出てくる裁判官は、「神を懼れず、人を人とも思わない」とんでもない人物です。こんな人が果たして裁判官に就けるのだろうか、いぶかる程です。
その彼のところに一人の未亡人がやってきては、ひっきりなしに裁判を開いてくれ、としつこく求めてきました。当時、やもめは、社会の中で最も弱い存在、必要な助けを持たない立場の代表でした。今でも「女の細腕」とか言われ、シングルマザーの置かれている環境は劣悪なものがありますし、女一人だからとバカにされること、信用されないこともあるでしょう。昔も今も少しも変わっていません。彼女は、もう裁判にすがる外はないのです。
それでこの不正な裁判官は、事の真偽を明らかにするとか、彼女の権利を守ってやろうという正義感からではなく、うるさくてかなわないので、という利己的な思いから裁判を開いたのです。ここまではたとえです。ここからが大事で、「まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人達のために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほおっておかれることがあろうか」とあって、先程の不正な裁判官でさえ彼女の執拗な求めに応えようとするなら、尚更主なる神様は無視なさることは決して無い、そう言いきれます。必ずあなたの切実な求めに耳を傾け、祈りに答えて下さる。いや求める先にすでにあなたの必要を覚えて下さっておられる。ならばどうして祈らないのか、祈らざるを得ないのではないか、そう問い返されます。
祈りは、私たち側からの求めという面だけでなく、何よりも神様がそれを願っておられ、それを大切にして下さる、その神様の思いに、このわたしの思いを重ねていく、委ねていく、そこに祈り続ける秘訣、幸いがあるのです。先に申し上げました果たして祈りは聴かれるのかとの問いも、その点から見ていく必要があります。
求めたことがそのまま実現されるよりも、もっと大切で必要なことに気づかせて下さる、いやこのわたしの最初の求めや願いに優る神の祝福へと導いて下さることも知ることが出来ます。祈りは、何よりも神のみ心にかなうことが大事です。どのように神様がこの私を導いていってくださるのか、ワクワクする期待と喜びにあふれて私たちも祈り続けたいものです。