おはようございます。平和の君教会の山下です。
イエスの母マリヤと言えば、クリスマスの聖誕劇での準主役でしょう。彼女は、天使のお告げによって救い主の母となる、と知らされた女性です。けれども救い主の母となる彼女に臨んだみ業は、直ちに喜びとなり感謝、とは思われず、むしろ戸惑いであり、重荷としか受け止められませんでした。何故ならそれは結婚しない前に知らされたことで、男女関係に厳しいユダヤでは私生児を宿すことは、死罪に当たるものだったからです。
それだけでなく、生まれて来るわが子が救い主として神のみ国を治める者となる壮大なご計画でもありました。うら若き娘が到底負い切れるものではありません。しかし天使は、彼女にどのようにしてその大いなる神のみ業が実現するのかを教え、導き、助けます。それは何よりも神の霊による聖霊の不思議なお働きであること、そして全能の神様の力強いみ言葉によるみ業であることを明らかにします。そうして遂に彼女は、神からの申し出を受け入れ「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と申し上げ、お告げに従います。
けれどもそれで事が済んだのではありません。その後も彼女は、その生涯において何度となく「主よ、どうしてなのですか。」とか「一体、これは何を教えるのでしょうか。」と神に問いかけざるを得ませんでした。その度に主なる神様は、彼女の祈りに応えてご自身の救いのみ業を着々と実現していかれ、救いは成就しました。
その神の大いなるみ業に用いられたマリヤの賛歌、「マフィニカート」と呼ばれる歌が残されています。こういう歌です。「身分の低い、このはしためにも目を留めて下さったからです。力ある方がわたしに大いなることをしてくださいました。」と。
彼女は、自分は大いなる神様の前に、いと小さき者、取るに足らない者、そう告白し主なる神を賛美しています。彼女の立ち位置、神様に対する関係は、これ以外にはない、いや立とうとしないのです。神を賛美するとは、神をあがめることであり、それは、神を大きくするということに他なりません。
前回、昨年7月に襲った西日本豪雨災害で甚大な被害の出た呉のボランティア活動に参加したことを少し申し上げました。その働きは、広島の牧師会と呉の牧師会との協力によるもので、当初は被災した教会と教会員だけを対象とした働きでした。けれども支援活動を進めていく中で、クリスチャンとそれ以外の方という区別は現場にはなく、どの家も同じ困難や不安、絶望を抱えていたのです。
その事情を聞きつけて、外国からのスーパーボランティアのグループ、また1台で千人分の働きをするブルドーザー等の重機を所有する建設会社の社長さんも加わって下さり、思いもよらない大きな支援の輪が出来ました。関係されたある方が、もし自分の教会だけで事を進めようとすれば何も出来なかったかもしれない、本当に神様が大いなる業をして下さった、そのように皆が受け止め、主を賛美した、と喜びつつ語って下さっていました。人の思いや計画を超えた神のみ業がここにも示されたのです。
どうかあなたも自分だけで全てを抱えないで、それを祈りを通して神様に願い求めていって下さい。そうすれば人知をはるかに超えることを、神様は必ず成し遂げて下さいます。