おはようございます。忠海教会の唐見です。今朝は旧約聖書の詩編13編の言葉に耳を傾けたいと思います。お聞きください。
「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え、わたしの目に光を与えてください、死の眠りに就くことのないように。敵が勝ったと思うことのないように。わたしを苦しめる者が動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います。『主はわたしに報いてくださった』と。」(詩編13編)
いまお読みした詩編で最初に気づくのは、「いつまで」ですかという訴えと嘆きが、4回も繰り返し出てくることです。くわしい状況はわかりませんが、詩編作者は今、非常に困難な状況に陥っているようです。彼を苦しめる敵がいて、それに対して彼はなすすべがないように感じています。「いつまで」ですかと繰り返されるフレーズが、彼のおかれている状況の深刻さを物語っています。
そのような中で、詩編作者は神の救いを求めます。彼にできることはそれしかないというように、彼は神の助けを祈り求めるのです。そして、主の慈しみに依り頼んだ彼は、この詩編の結びで、大きな喜びに満たされ、主なる神への賛美の歌を歌います。それまでの苦しみがまるで嘘のように、彼の魂は晴れやかになっているのです。もはや彼の心を悩ますものはなく、神への感謝で溢れています。主が彼の嘆きと訴えをきき上げてくださり、報いを与えてくださったからです。
この詩編を読むとき、私は教会のある姉妹のことを思い出します。
2013年の冬の終わりに、その方は医者からがんであることを告げられました。春になってから腫瘍の摘出手術、それからほどなくして抗がん剤治療が始まりました。それは「いつまでですか」と問いたくなるような苦しい闘病生活の始まりでした。その方のがんは肺がんでした。その治療の過程で腎臓の機能が急激に悪化し、人口透析が必要な身になりました。病状が悪化していくなか、酸素吸入をしても呼吸は苦しそうで、肌の色は土色に変わっていきました。
「いつまで」ですかと問いたくなるような苦しい闘病生活の中にあっても、その方の表情はいつも穏やかだったことを思い起こします。明らかに体調が悪く、そしてそれがさらに悪化しているのが分かっているなかで、笑顔で話してくれました。その様子は決して強がっているのでも、演技をしているのでもありませんでした。
がんの宣告から約1年後、天に召される日が近いことを感じつつ、数名の教会員と家族とともに、姉妹の自宅で聖餐式を行いました。そのとき自力で体を動かすのも困難な状態でしたが、しっかりとパンとぶどう酒を口にしました。わたしはそのときの表情をはっきりと覚えています。それは、詩編13編の言葉を借りれば「わたしの心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います」という表情でした。
それからほどなくして、彼女は天に召されました。喜びと平安に満ちた表情で。たしかに「主はわたしに報いてくださった」との思いを抱きつつ。