おはようございます。高知県の山田教会で牧師をしております、高内信嗣と申します。
教会ではいつも讃美歌を歌います。なぜ歌うのかといいますと、天にいらっしゃる神様に対して、感謝と喜びを伝えるためです。
さて、教会で歌われている讃美歌の一つに「アメイジング・グレイス」という有名な讃美歌があります。この歌の歌詞の中に「かつては盲目だったが、今は見える」という言葉があります。この言葉の意味は神様の驚くべき恵み、それが分かるようになったということでありますが、同時に、自分自身がいかに汚れた罪を神様に対して犯していたのかということがはっきりと見えるようになった、ということもまた含んでいるのだと思います。
この歌を作りましたジョン・ニュートンという人は、元々奴隷商人でありました。奴隷を輸送する船の持ち主であったといわれています。彼は人間を商品として売りさばくことに、なんの良心の咎めも感じておらず、ただお金が稼げればそれでいいと思っていました。
「かつては盲目であったが今は見える。」良心の咎めも感じない自分のどす黒い罪という姿、それがかつては見えなかったが今ははっきりと見えると、彼は言うのです。よくよく考えてみると、私たちが自分のどす黒い汚れに気付いた時、心底、震えるぐらいの恐ろしさに目が開かれる時、そのことだけに終わってしまうなら、人間は絶望するしかありません。
その時、私たちは本日の聖書の言葉を思い返したいと思うのです。イエス様が目の不自由な方のその目に両手で触れました。するとその人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」と言いました。つまり、ぼんやりと見えるようになったということです。そしてイエス様がもう一度、その人の目に触れると、何でもはっきりと見えるようになったのです。彼は目が開かれ、一番初めに、イエス様のお姿を見たのです。
私たちの目が開かれ、自分の汚れた姿に気付いた時、そこには絶望しかありませんが、もし、自分自身の汚れをはっきり見たその目の中に、イエス様の姿を見ることが出来たならば、自分を救って下さるイエス様の温かな愛を見ることが出来たのなら、全く世界は変わるのだと思います。
私たちの人生は泥まみれです。悲惨な出来事がニュースで報じられます。絶望を覚えている方も多くいらっしゃいます。挫折だらけの人生の方もいるでしょう。しかし、もしその中でも私たちがイエス様の愛を見ることが出来るのなら、私たちのちっぽけな人生はどんなに輝きに満ちたものに変わるでしょうか。今はまだ、見えない日もあるでしょう。あるいはぼんやりで、どこにそれがあるのかもはっきり見えないかもしれません。
しかし、ないわけではありません。確かにイエス様の愛は私たちの目の前にあるのです。私たちの生活のいたるところに、イエス様の愛は満ち溢れています。イエス様は私たちがその愛を見ることが出来るように、私たちの心の目を開いて下さいます。あたたかい手で、いつもみなさんに手を差し伸ばして下さっています。放送を聞かれているあなたが、今日も、イエス様の大きな愛を見ることができますように。
今日は日曜日です。是非、教会にお出かけ下さい。大きなイエス様の愛が感じられるでしょう。