おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
「働かなくても生活できたらいいのに」という言葉をときどき耳にします。そして、天国ではきっと働かなくても暮らしていける、そんな世界に違いない、と漠然と考えている人もいるかもしれません。
果たして、理想の人間の姿は働かないことにあるのでしょうか、それとも、働くことにあるのでしょうか。働かないといけなくなったのは、何かの罰なのでしょうか、それとも人間本来の姿なのでしょうか。
その問いに対して、しばしば聖書の一番最初の書物「創世記」の第3章の記事が引用されることがあります。そこには、人類の堕落とエデンの園からの追放の話が記されています。罪を犯して堕落したアダムに対して、神は罰として「顔に汗を流してパンを得る」労働を課した、というものです。
エデンの園では、どの木からも自由にとって食べてもよいという環境の中にいましたが、エデンの園から追放された今となっては、自分で働かなくてはならなくなった、という理解の仕方です。しかし、ほんとうにその読み方は正しいのでしょうか。労働は人類に対する神の罰でしょうか。
確かに「創世記」の2章では、神は最初の人アダムに対して「園のすべての木から取って食べなさい」とおっしゃいました。けれども、その前を読むと、神がアダムをエデンの園に置いたのは、その土地を耕させるためでした。つまり、働かなくても食べていけるようにエデンの園に置いたのではなくて、園の土地を耕す報酬として、すべての木から取って食べることが許されたと理解した方が良さそうです。言い換えれば、働くことは、罰なのではなく、人間の本来の姿として聖書は描いているということです。
では、「創世記」3章に出てくる「顔に汗を流してパンを得る」のくだりはどう理解したらよいのでしょうか。労働することは、堕落の前からあったのですから、少なくとも労働そのものが罪の罰であるはずはありません。むしろ、堕落の結果、労働の喜びが失われ、食べていくための手段に成り下がってしまった、ということではないかと思います。
祝福であるはずの労働が、苦しいとしか感じられなくなってしまったところに、堕落した人間の悲惨さがあります。額に汗してあくせく働いても、結局死んだらおしまい、という目でしか働くことの意義を考えられなくなってしまっているのです。それは、働くことに対するものの見方、考え方というばかりではなく、労働をむなしいものにしてしまっているという現実でもあります。
それでは、天国に入ったとき、人はどうなるのでしょうか。それに関して、聖書に具体的な教えがあるわけではありません。書かれていないことについて、考えを巡らせるのは、分を超えたことだと言わざるを得ません。しかし、あえて言うとするならば、天国においても、人は存在の意義を失うわけではありません。
そういう意味で人に固有な働きを続けていくことは確かです。いえ、神の国では働くことの意味がもっともよく実感できる世界であるということができるでしょう。ただ、これ以上のことを想像で考えることは意味がありません。むしろ大切なことは、この地上で働くことの意味を、本来の労働の意義に立ち返って考えることではないでしょうか。