おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
聖書は66巻の書物から成り立っています。その一番最初の書物は「創世記」と呼ばれています。もちろん、「創世記」という表題は後から便宜上つけられた名前で、この書物全体を正確に言い表しているタイトルではありません。しかし、聖書を初めて手にして読むとき、この「創世記」の書物の名のとおり、この世界が創造される次第に触れて、様々な感想を抱くことと思います。
「様々な感想」と言いましたが、たいていの人にとっては、ただの神話としか思えない内容でしょう。抱く感想は人それぞれなので、ここでどうこう言うつもりはありません。ただ、この書物に対する偏見から、「ただの神話」と片づけてしまったり、「非科学的な書物」ということで、内容を一切顧みないのは残念な気がします。
もちろん、聖書が「科学的な書物である」とは言いません。しかし、何のメッセージ性もない他愛もない空想物語でないことは確かです。わたしは、「創世記」の最初の数章ほど、人が生きる上で大切な真理を教えている書物はないと思っています。 今朝は、その創世記の中から「それは極めて良かった」という言葉を取り上げたいと思います。
創世記の第1章には、キーワードのように「神はそれを見て良しとされた」という言葉が、繰り返されています。6日間にわたる天地創造の記事の中で、ただ2日目だけが「神はそれを見て良しとされた」という言葉がありません。そのことに特別な意味があるとは思えません。2日目は失敗だったということではないでしょう。というのも、6日目に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と記されているからです。そのことからもすべての日が良かったことは明らかです。
創世記1章が伝えるメッセージは、この世界は神の理想通りに完成された極めて良い世界であるということです。
けれども、ここで、誰もが素朴な疑問を抱くと思います。今、現実に私たちが生きている世界は、お世辞にも素晴らしい世界とは思えません。悪がはびこり、不正が行われ、貧富の差が拡大し、人を人とも思わないような扱われ方が公然と行われています。人間の悪の問題ばかりではありません。自然界に起こる災害が、理不尽にも人々の生活や命を奪っていきます。これが極めて良い完成された世界だとしたら、とてもそんなことを主張する書物の言うことなど信じられません。
もちろん、「創世記」を先に読み進めるときに、なぜこの世界が神の理想から離れて、悲惨な世界になってしまったのか、その理由が記されています。そのことはさておくとして、この私たちが生きている世界を、どう捉えて生きるのかは、とても大切な問題です。
この世界は最初から悲惨に満ちた世界だったのでしょうか。言い換えれば、ほとんど望みのない世界に、無い知恵を絞って生きるのか、はたまた悪知恵を働かせてずる賢く生きるのか、あるいはこんなものだと諦めて生きるのか、それとも、世界は最初はこんな悲惨ではなかったと信じて、理想の世界に救いを求めて生きるのか、応え方次第で、その人の生き方はまったく違ったものになってしまいます。
あなたは何を信じて、どう生きるのですか。これこそ「創世記」が私たちに問いかけている大きな問いだと思います。この問いに答えるのは一人一人です。