おはようございます。お変わりありませんでしょうか。私たちは、先週聖書の第一頁第一行のことば、「はじめに神は天地を創造された」という言葉について学びました。聖書によりますと、神は6日間の間に世界を創造されました。その6日間の間、神は一日一日慎重に創造の業を進められたのです。
聖書を見ますと、「神は見て良しとされた」、「神は見て良しされた」という言葉が繰り返し出てまいります。神は一日一日ご自分の業をじっと見つめ、慎重に「良し」、「良し」と言って出来映えを確認しておられるのです。例えば、第一日目には、「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。」とあります。このようにして確認しつつ、5日間ですべてを整えた上で、6日目に熟慮の内に創造の冠として、人間をご自分に似せて創造しておられます。
6日間の創造の業をすべて終えられた後で、神は最後の確認をしておられます。それが今日の聖書の言葉です。すなわち「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(1:31) 神は、ご自分の創造の業について「極めて良かった」と最大級の満足と喜びを明らかにしておられます。今朝はこの聖書の言葉について考えてみたいと思います。
キリスト教信仰と言えば、おそらく多くの人が中世の修道院の生活のように、この世に背を向け、世を捨てて生きることだと考えておられるのではないかと思います。あるいは、そこまで極端ではないにしても、少なくともこの世の様々なことに対して超然とし、禁欲的な生活が求められていると考えておられるのではないでしょうか。実は、私自身も正直に告白しますと、洗礼を受けるとき、何だか窮屈になるなあ、もう何も楽しめなくなるのかなあ、と心配したことは事実です。
確かに、聖書はローマの信徒への手紙13章12節から14節にあるように、「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」と語っています。罪の中にあって欲望のまま生活する生き方をきびしく退けています。むしろ、キリストによって救われ、今や光の中に入れられた者として、神の前に品位のある生き方をするように強く求めています。キリスト者の生き方は確かにそのような生き方です。
しかし、このことは、はたしてこの世に背を向け、この世に超然とし、何も楽しまず、ただ禁欲的に生きることを意味しているのでしょうか。
私たちは聖書の語る出発点に戻るべきでしょう。聖書は「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と語っています。神の造られた世界は神ご自身が深く満足し、喜ばれたように、それは素晴らしい美しい世界であったのです。それは神の栄光が輝く素晴らしい劇場でした。人間に求められていることは、何よりもまず神から賜った神の栄光が輝きわたる世界を子供のように喜び楽しみ、感謝し、神の栄光を賛美することであったのです。
私たちが目にする外の世界だけではありません。創造された人間、自分自身もまた神が「極めて良かった」と満足してくださった対象なのであり、自分自身の存在をも喜び楽しみ、神に感謝することが求められたのです。神の創造の世界は決して禁欲的な世界ではありません。おおらかな世界であり、積極的に喜び肯定すべき世界であったのです。
確かに人間の堕落後、私たち自身にも罪があり、この世界もまた罪の影響下にあります。ですから、そこには罪との戦いがあり、品位を失って欲望に生きてしまう私たちの弱さもあり、それとの戦いは残りつづけます。しかし、イエス・キリストによって救い出され、創り主なる神を崇めることを教えられた私たちは、神の造られた素晴らしい世界を見出し、神の創造のすべての賜物を喜ぶことができるし、喜んで良いのです。日々心から楽しむことが許されているのです。ですから、目に見える美しさを喜び、耳に聞こえる美しい音色を喜び、肉体の快ささえも喜ぶ道が信仰には開かれているのです。
私自身、イエス・キリストを信じてから、神の栄光を仰ぎつつ、神を喜び、神が受け入れてくださった自分自身を喜び、与えられた年令を受け入れて喜び、神が与えてくださった家族をまた人々との交わりを喜び、絵や音楽や映画を、スポーツや旅行を神の御前に感謝して心から喜ぶことができるようにされました。空しい喜びではなく、神の前に心から喜び、楽しむ生活です。
キリスト教信仰の土台には、神が創造された素晴らしい世界の肯定があります。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」そこにはキリスト教信仰の自由でおおらかな世界が示され、開かれているのです。