おはようございます。田無教会牧師の中山仰です。
信仰に入るにはいろいろのケースがあります。私の父の話で恐縮です。その父が信仰に入ったきっかけの言葉が、ヤコブの手紙4章17節です。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」生真面目で曲がったことが嫌いな父親でしたが、この言葉に出会って自らがこれを守れない罪人であることを自覚したのでしょう。
ただ罪の自覚だけだったら果たして信仰に入るでしょうか。その罪を覆う圧倒的な愛が聖書には示されていました。それがイエス・キリストの愛です。聖書の神は、決して悪や罪をいい加減にして放っておかれるお方ではありません。だから私たちの罪を御子であるイエス・キリストに肩代わりさせて十字架につけてくださいました。このことを信じ、御子に従うことを表明するだけで聖書の神はすべてを赦してくださいます。この愛があるから今日も明日も将来も生きられます。
教会の説教の中で「あなたは罪人だ」と迫られてとても重い気持ちになるから、行くのがいやだという話を聞いたことがあります。聖書では犯罪を犯したから罪人だいうのではありません。神から離れ自分勝手に生きること、それが罪なのです。信仰者でも、牧師であっても「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」(ヤコブ2:24)
うわべだけの従い方を救い主は喜ばれるでしょうか。神の前に立っている私自身が真っ先に悔い改める必要があります。まさにそこに赦してくださる愛の神がおられ、悔い改めと同時に喜びをもって迎えてくれます。