ご機嫌いかがでしょうか。南越谷コイノニア教会の黒川豪です。
イエス・キリストがしてくださったたとえ話の中に「放蕩息子」のたとえがあります。ある人に二人の息子がいて、弟の方が父親に財産の分け前を要求するのです。けれども父親は、特に腹を立てることもなく、二人の息子に財産を分けてあげるのです。
何日もたたない内に、下の息子は父親からもらった財産を全部金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまいます。そして、何もかも使い果たしたときに、その地方で酷い飢饉が起こり、彼は食べるのも困り始めます。結局彼は、豚の世話をさせられることになり、飢え死にしそうなほどに落ちぶれました。その時彼は我に返り、父親のところに帰れば、たとえ雇い人として働くにしても飢え死にするようなことはないことに気づくのです。
そして彼は、父親のもとへ引き返しました。さて、父親はどうしたでしょうか? 聖書には次のようにあります。「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカ15:20) ここの「父親」は、実は「神」を指しています。そして「放蕩息子」は、神に背を向けて歩んでいるわたしたちを指しています。
あなたが神に向き直るなら、神は腸(はらわた)がちぎれるほどに憐れに思って走り寄ってくださり、あなたの首を抱き、接吻してくださいます。それも何度も何度も接吻してくださいます。そして神は、あなたを神の子として受け入れてくださるのです。償いは神の方で用意してくださいます。