ご機嫌いかがでしょうか。南越谷コイノニア教会の黒川豪です。
わたしたち人間は、一人残らず、他の誰かから存在を認めて欲しいという思いを、意識していようがいまいが、持っています。たとえば、テストで100点を取ったりして、親や先生などから褒められたら、うれしいのではないでしょうか。
けれども、テストで良い点数を取ったり仕事で良い結果を残したりして、人に認められた場合、それは自分の行為に対する条件付きの評価なので、もしも次のテストなどで良い結果を残せなかったらどうしよう、という不安は残るのです。そしてわたしたちは、もし誰からも存在を認めてもらえないことがあるならば、悪いことをして叱られてでも、存在を認めてもらおうとするところがあるのです。そのくらい、わたしたち人間の、他の誰かから存在を認めて欲しいという思いは強いのです。
聖書のイザヤ書43章4節には「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」とあります。ここの「わたし」とは、天地万物を創造なさったまことの神様を指しています。そして、ここの「あなた」とは、直接にはイスラエルの民を指していますが、究極的にはわたしたちのことを指しているのです。
天地万物を創造なさったまことの神様の目には、「あなたは価高く、貴い」のです。そしてまことの神様は、あなたの存在そのものを無条件に愛しておられます。あなたが今、たとえどんなに自分が惨めで情けなく、自分が嫌いであったとしても、神様のあなたに対する愛は全く変わることがないのです。