おはようございます。西鎌倉教会の大木信です。
キリスト教は長い歴史のなかで、しばしば聖書の真理から離れ、脱線した教えがあった様です。キリスト教を語りながら人を惑わす人たちがいたことを、歴史などからも学ぶことが出来ます。
人となって生まれたイエス・キリストを神として信じることができなかった人たちがいました。精神や心ばかりを尊び、やがて朽ちて行く肉体は、汚れた醜いものとして軽んじる、そういう教えがあった様です。しかしこれは脱線した教えであり、正しいものではありません。
愛が最も輝くのは、人の、しかも弱い肉体をもって悩む人のその痛みを理解し、そのために身も心も献げて仕える時ではないでしょうか。寝たきりの方や、重症の病人を看病する、或いは見舞うとき、そこに横たわっているのは弱い方です。醜く映るかもしれない。醜いだけではない、汚いかもしれないのです。しかしその時にこそ、真実の愛が求められます。弱く、醜い肉体が正しく理解されない所では、真の愛もまた理解されてはいません。
イエスさまの十字架は、まさに壮絶、その意味では醜いものでした。しかしそこには真の愛がありました。私たちはこの愛を受け取りたいと思います。