おはようございます。西鎌倉教会の大木信です。
世の中には「愛」という言葉があふれています。愛は、上手な交際でも、気の合った者同士の付き合いでも、自己満足な親切でもないと思うのです。多くの人が口にしながら、愛ほど見つけ出すのが難しいものはないのではないでしょうか。
神の愛は決して変化しません。それに比べて人の愛は変わります。愛が突然憎しみに変わることは少なくないからです。そして愛の変化ほど、他者の心を傷つけるものはありません。親切そうに見えて、平気で人を裏切る人も中にはいるのです。
キリスト教は、時に「愛の宗教」だと言われたりします。「神は愛なり」という言葉が聖書の中にあります。しかし、この神の愛は、見つけ出すことは難しいものです。聖書が教える愛は、どこにでもある愛とは違います。言わば、人としての最後の条件ともなるものです。しかもその愛は、生来人が無くしてしまったもの、今では神のみに属するものです。
イエスさまは、私たちがまだ神を愛することを知らず、他者を愛することも知らなかった時、既に愛を十字架において示しておられた方です。この愛を私たちは理解できるでしょうか。しかし私自身、まだまだ分かっていない、その途中の者です。イエスさまのように愛することは、困難なことです。しかし、この愛だけが愛と呼ばれるにふさわしいのです。この愛に生かされたく思います。