おはようございます。西鎌倉教会の大木信です。
今日は「知る」という事について考えたく思います。ひと言で「知る」と言いましても、学んで覚える知識と、例えば友人を知るという意味とは違うことを思わされます。友人を知るという場合、ただ顔を知っているという単純な事とは違うと思うのです。人の心は海の様に深く広く、とうてい知り尽くす事は出来ません。親しい関係だった者たちが時として仲互いし、絶交となる場合もあるからです。
友達を知る難しさは、神を知る難しさとどこか似ているように思えます。しかし、神を見たものは一人もいないわけですから、その意味では友達どころの難しさではありません。
神が何を喜ばれ、何を嫌われるかは聖書からしか分かりません。聖書のことを「掟」とか「律法」と言ったりもしますが、神を知ろうとするならば、聖書から聞かなければなりません。聖書を読むだけでは神を知ったことにはなりません。聖書から聞くとは、そこに書かれてある言葉を守る、従うことと深く結びついているからです。
感謝なことに、聖書にある掟がどうしても守れなくても、私たちにはイエスさまという正しい方がおられます。この方によって、神を知ることが出来るのです。この方を味方につけた人は、口先だけではない愛に生きることになります。今日もイエスさまと共に、世に打ち勝つ愛に生きたいと思います。