いかがお過ごしでいらっしゃいますか。江古田教会の浅野正紀です。
今週は、イエス・キリストが受けられた十字架の苦難を思い起こす受難週を過ごしています。私たちにとってイエスの十字架がどんな意味を持っているのか、共に聖書から考えてきました。今日は、その最後です。
イエスは、何も罪を犯していないにもかかわらず、ローマ総督ピラトによって、ローマ帝国において最もきびしい死刑方法である十字架刑を受けられました。このイエスの十字架刑による死には、大きな意味がありました。
使徒パウロは、このイエス・キリストの十字架刑による死について、こう記します。コリントの信徒への手紙一 2章1節から2節です。
「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」
パウロは、決して高尚な哲学を教えていたのではなく、ただ十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝え続けました。普通に考えたら死刑を受けた人のことを語り続けるのは、おかしいように思えます。これを聞いた人々は、なかなかパウロの語ることの意味を理解できなかったと思います。
しかし、十字架につけられたイエス・キリストこそ神の愛のあらわれであり、私たちの救いです。ぜひこのキリストの十字架の意味を知って、神と共に歩む新しい人生を始めてほしいと願います。