いかがお過ごしでしょうか。東京練馬の光が丘キリスト教会で牧師をしております、尾崎純と申します。
旧約聖書の詩編23編では「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言われています。このわたしは羊飼いである神様の羊であるから、まったく安心だということです。しかし、どうして神様を羊飼いに、自分を羊にたとえるのでしょうか。
羊は、同じサイズの生き物の中で一番脳が小さい生き物です。また、羊の角は巻いていて、身を守るすべもありません。さらに、羊はとても臆病で、狼の鳴き声を聞くと、羊の群れは押し合いへし合いして、仲間の羊を踏みつぶしてしまうこともあるのだそうです。つまり、羊は全く無力で、羊飼いがいなくては生きていけないものなのです。
しかし、その羊を、羊飼いはどのように扱うのでしょうか。詩編23編はダビデの詩です。ダビデは元は羊飼いでした。そして、身を挺して羊を守ってきたのです。
そして、羊と共に生きたダビデには分かることがあります。自分がどれだけ羊を愛しているかということです。その羊飼いを羊も愛するのです。これはキリストの言葉にもありますが、羊は、羊飼いの声を聞き分けます(ヨハネ10:3-5参照)。実際、他の人が羊飼いの声を似せても、羊飼いの服を着ても、羊は間違うことがありません。そして、自分の羊飼いの後をついて行くのです。
ですので、私たちが羊であり、神様が私たちの羊飼いであるとき、私たちには何も欠けることがないのです。