おはようございます。坂井孝宏と申します。クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、今日は「自由」という言葉を考えてみましょう。
自由という言葉は本当に魅力的な言葉で、一般的な日本語としてもよく用いられますし、その使い方というのは実に多様であります。日本国憲法で保障されている信教の自由や表現の自由といったことから、学校の自由時間とか自由研究といったことまでですね。
自由とは何か、なんてことは学問的にも大きなテーマでしょうから、とても一口では言えないことですが、一般的な辞書的な意味では、心のままにふるまうこと、何ものにも束縛されず自分自身の本性に従うことという風にとらえられているようです。
しかしそうなってきますと、教会で言われているところの自由ということとは、だいぶ意味合いが変わってくるんですね。キリスト教の教えでも、よく自由、自由と言われます。だけど、全然自由じゃないじゃないか、と思いました。日曜日には毎週ちゃんと礼拝するし、神様以外は信じちゃいけないっていうし、制約のほうが多いじゃないかと、私ははじめのころそういう風に思っていたんですね。それは聖書の言葉遣いにおける自由というニュアンスがよく分かっていなかったからです。
イエス様の教えるところによれば、私たちが心のおもむくままに振る舞うということは、よくないことです。なぜなら、私の心は罪に汚染されているからです。むしろ、そういう罪深い思いに縛られてきた、古い自我を脱ぎ捨てて、新しくキリストと共に生き始めること、それすなわち「罪からの自由」ということ。これが聖書における「自由」という言葉です。