いかがお過ごしでしょうか。せんげん台教会牧師の川栄智章です。
過越しの祭りの時、神殿に行く道すがら(マタイ21:18)、イエスさまは一本のイチジクを見て近寄られると、葉の他には何もありませんでした。イエスさまはそのイチジクに対し「今から後、いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、たちまち枯れてしまいました。まだ「初なりのイチジク」の時期ではなかったのに、なぜイエスさまはご自分が空腹だからといって、何の罪もない一本のイチジクの木を枯らせたのでしょうか。
普通イチジクというのは、実がなった後に葉が茂ります。葉が茂っているのをご覧になったイエスさまは「おや」ということで、近づかれたのでしょう。ところが、葉ばかりで、肝心の実が結ばれていなかったのです。このイチジクの木に、あたかも口先だけで神様を敬うけれど、神の御子がこの世に来られた時に、激しく敵対し、拒絶し、悔い改めの実を結ばなかったイスラエルの姿を見たのです。
救いとは、儀式によって、律法の行いによって得られるのではありません。イエスさまの恵みにより、信仰によって救われるのです。真の信仰を持っている人は、自分のどんな功績も、どんな行いも神の御前に持っていく事はできないので、ただ悔い改めと、祈りへと導かれるのです。