御機嫌いかがでしょうか。中山仰です。
目の前にイエスでも誰でも復活させて見せてくれ、そしたら信じるから、という人がいます。本当にそうでしょうか。イエス様が墓から復活したとき、牢の番人は恐ろしさのあまり固まっていたとあります。私たちも完全に死んでしまったと思っている人が生き返ったとしたら、多分恐怖でしかないのではないでしょうか。
聖書には復活したイエス様との出会いの美しい場面がたくさんあります。その一つにイエス様を愛してやまないマグダラのマリアとの出会いの場面があります。墓が空であったので誰かが愛する主イエスの遺体を盗んでいったのだと思い、途方に暮れているマリアにイエス様は目の前に立ちます。しかし彼女は牢の番人だと思って、主の遺体をどこかにやったのだったら返してくださいと頼んでいます。
このように心から愛するイエス様が復活して、目の前に現れているのに全く気が付きません。尋常でない涙の量で見えなかったのだと思いたくもなるようですが、そうではなさそうです。イエス様の方からマリアと呼びかけることによって初めて気がつきます。人格的なふれあいがないとイエス様と出会えません。この出会いが鮮やかに起こる所が教会です。信者はこの主との出会う喜びがあるから、毎週礼拝に出かけるのです。
神は私たち一人一人を心から愛して、名前を呼んで人格的交わりをしてくださいます。
「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」詩編139編13節
このような私たちのすべてのすべてであるお方が愛し招いていてくださっています。この愛を確認するために教会へおいでになりませんか。教会はいつでもあなたをお待ちしています。