ごきげんいかがでしょうか。中山仰です。
街のあちこちに聖書の言葉が書かれているのを見かけたことがあると思います。前に広島の教会にいた時のことです。
電話がかかってきて、「あの看板はお宅の教会と関係ないんですか。」「ええ違います。」「どこの団体だか教えてくれませんか。」
どうしてですか、と尋ねると、近くのあるおばあさんの家に看板をつけさせてくれと頼まれたところ、人の良いおばあさんは二つ返事で引き受けたそうです。ところがその看板の大きさが2m以上あって、とても目障りなので外したいというのです。
ところであの看板の言葉で、「神は愛です」などはいいのですが、「悪いことをすると罰を受ける」「地獄に堕ちる」とかなどという言葉を見ると、牧師である私でもどきっとします。確かに自分の中に罪があるので仕方がありません。聖書の言葉はイエス・キリストに照らし合わさないと律法的になるか、裁きの言葉として聞こえて来るものです。
教会では、聖書の言葉は神の恵み、キリストの赦しと重ね合わせてお話ししています。ですから教会へおいでくださることをお勧めしています。私たちが自分の罪を心から悲しむとき、すべてをご存知で迎えてくださる方がいらっしゃいます。私が受けなければならない罪の刑罰を引き受けて十字架についてくださったのが、イエス・キリストです。
ヨハネによる福音書3章16-17節には次のように言われています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
この言葉こそ、聖書の中心メッセージです。