ご機嫌いかがでしょうか。南越谷コイノニア教会の黒川豪です。
少し前に、ある人からお手紙をいただきました。「世の中の多くの人は、教会に通っているクリスチャンは心が清くて立派な人たちの集まりだから、自分たちには関係がないと思い、キリスト教には好意を寄せても教会には来ないのではないか」という内容でした。
けれども、キリスト教会とは、心がまったく清いから集まるところではないのです。わたし自身、未だに罪との戦いはなくなりませんし、自分の心がなんて汚いのだろう、と嘆くこともしばしばです。
ところで、イエス・キリストによれば「心の清い人々は、幸いである」というのです。なぜなら「その人たちは神を見る」からです。ただ、イエス・キリストがお語りになる「心の清さ」とは、二心のない状態という意味での「心の清さ」です。魂の救いにおいて、イエス・キリストにも依り頼み、他の神々にも保険をかけるというのではなく、イエス・キリストのみに依り頼む人が、心の清い人なのです。
そのような人は、イエス・キリストの十字架の血によって全ての罪を赦され、罪の支配から解放されて、この地上においては、心の目で神を見るようにされ、永遠の天の御国においては、復活のイエス・キリストを直接見ることができるようにされるのです。ですから「心の清い人々は、幸いである」のです。