聖書を開こう 2018年12月13日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  柔和な王イエス(マルコ11:1-11)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書には「預言」という言葉があります。耳で聞くと、未来のことを言い当てる「予言」と区別がつきません。聖書が使う「預言」という言葉は、未来の出来事を予め告げる「予言」ではなく、神から言葉を預かるという意味で、「預金」の「預」「預かる」という漢字を使って「預言」と書きます。その内容は必ずしもこれから起こることばかりではありません。しかし、しばしばこれから起こる事柄についても語られます。

 キリスト教会は、旧約聖書の預言の言葉のあるものは、イエス・キリストによって究極的に成就したと理解しています。それはキリストご自身がご自分に当てはめて預言の言葉を弟子たちに解き明かしている場合もありますが、弟子たちが後になってから、キリストのとられた行動が、実は聖書の預言のあの言葉の成就だったのだ、と気がつく場合があります。

 きょうこれから取り上げる箇所も、旧約聖書のある預言の言葉を、まるでそのままキリストが演じているような個所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 11章1節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは2人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」2人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。2人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。2人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、12人を連れてベタニアへ出て行かれた。

 マルコ福音書は11章からいよいよ十字架と復活のクライマックスに向かって物語が展開していきます。キリストが弟子たちにお語りになった通り、エルサレムで起ころうとしている大きな出来事を身に引き受けるために、イエス・キリストはエルサレムの城門をくぐられます。

 教会の暦ではこの日のことをパームサンデー、棕櫚の日曜日と呼び習わしています。それはヨハネによる福音書12章によると、エルサレムに入場するイエス・キリストを、民衆たちが棕梠の枝(なつめやしの枝)をもって出迎えたとあるからです。そして、この日をもって受難週の開始が告げられます。

 さて、イエス・キリストは過ぎ越しの祭りに集う民衆たちと一緒にエルサレムに上られました。その様子は他の巡礼の旅の者たちと変わるところはなかったかもしれません。しかし、エルサレムの城壁を目前にしたとき、イエス・キリストは特別なことを弟子たちにお命じになりました。それは1匹の子ロバを言われた場所から連れてくるようにと言うことでした。その子ロバに乗ってエルサレムに入城されるためです。

 なぜ馬ではなく子ロバなのか、不思議な行動です。王様として勝利の入城をイメージされているのだとすれば、ロバではなく馬の方がそれにもっとふさわしいはずです。見栄えのしないロバに乗ってやってくる王様など考えられないことです。むしろ、勇ましい軍馬にのって威風堂々と入城された方が、いかにも王様の風格にぴったりです。

 何故、わざわざロバの子の背中に乗ってエルサレムに入られたのでしょうか。

 実は、マタイによる福音書もヨハネによる福音書も旧約聖書の預言の言葉を引用して、この出来事を説明しようとしています。その旧約聖書の預言とはゼカリヤ書9章9節の言葉です。

 「娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。 見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」

 ヨハネによる福音書によれば、弟子たちは後になってから、この出来事が預言者ゼカリヤによって預言されていたことであると悟ったと記されています。

 さて、そのゼカリヤの言葉に従って、イエスのなさったことを考えてみると、イエス・キリストの行動の意図はとてもはっきりしていることに気が付きます。

 まず、イエス・キリストは1人の巡礼者として過ぎ越しの祭りに参列するために、エルサレムにこられたのではないと言うことです。そうではなく、王様としてエルサレムにやってこられたと言うことです。イエス・キリストこそエルサレムに迎えれるにふさわしい王様なのです。しかも、勝利の王様として入城しようとしていらっしゃるのです。

 しかし、そのような意図で入城されるのであれば、それこそ勇ましい軍馬に乗っての入城の方がずっとふさわしいように思われます。それをあえてしなかったのは、まさにこのゼカリヤ書の預言の中心的なポイントなのです。

 ゼカリヤ書によれば、エルサレムに入城される王様は勝利の王であると同時に柔和な王でもあります。勝利と言う勇ましいイメージと柔和という優しいイメージを両方兼ね備えたお方こそ、来るべきメシアの姿なのです。

 神がおつかわしになるメシアは、確かに人々が期待したように勝利に輝く王としてのメシアでした。けれども、それは軍人のような姿で勝利をおさめる王ではなく、柔和な姿で勝利をおさめる王の姿です。イエス・キリストはこのゼカリヤ書が預言したメシアの姿の通りに、ご自身を柔和な王、ロバの背中に乗った王として、エルサレムに集う人々に姿をあらわしたのです。

 聖書が描くメシアの姿は、一方では勝利の王です。しかし、同時に柔和な姿の王なのです。これから先、エルサレムでイエス・キリストの身の上に起ころうとしていることがらは、勝利の王イエスにはふさわしくない出来事かもしれません。けれども、柔和な王として、すべての苦難を引き受け、勝利の王として輝こうとしていらっしゃるのです。この柔和な王、ロバの子の背中に乗った王であるイエス・キリストこそ、私たちの救い主の姿です。

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