聖書を開こう 2018年9月20日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  エリヤは来たけれど…(マルコ9:9-13)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 本当の姿をあらわさない、と言うことは、しばしば、まことの宗教を語る上で争点になることがあります。もし、本当に救い主であるなら、当然、その証拠となる姿をあらわすべきだと普通なら考えます。目の前で病気を癒すとか、将来起こることを見事言い当てるとか、そういう動かぬ証拠を見せられるなら、信じる者も起こされると考えられるからです。逆に、そういう姿を表わさないとしたら、その人は偽の救い主にほかならないからだと考えられてしまうでしょう。

 確かにその考え方にはそれなりの言い分があります。しかし、イエス・キリストはあるときには大胆に奇跡を行い、また、別なときには何も行わず、ご自分が行ったことについてすら何も語らないよう口止めされるということさえなさいました。きょうの個所でも、厳しく口止めされるイエス・キリストの姿が描かれます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 9章9節から13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

 前回は、3人の弟子たちの前で、眩しいほどの輝く姿になったイエス・キリストについて学びました。ある意味では、この栄光に輝く姿こそ、ペトロが「あなたこそメシアです」と告白したときに思い描いていたキリストの姿だったに違いありまん。そう考えたのは、ペトロばかりではなかったはずです。誰もがメシアについて思い描くとき、あのような輝かしい姿で、神の敵を征圧する勇ましい救い主を連想していたに違いありません。

 もしも、この3人の弟子たちがたった今見聞きしたことを触れ回れば、人々の関心をもっと集めることができたに違いありません。少なくとも十字架で苦しむメシアについて語るよりも、ずっと魅力的に聞こえるはずです。

 しかし、イエス・キリストは山を下るとき、弟子たちにこうお命じになりました。

 「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」

 イエスがご自分について言い広めないようにとお命じになるのは、このときが初めてではありませんでした。重い皮膚病を患う人をお癒しになったとき、誰にも話さないようにと命じられました(1:44)。耳が聞こえず、口のきけない人をお癒しになったときもそうでした(7:36)。イエス・キリストのことをメシアであると告白したペトロに向かってさえも、ご自分のことを言いふらさないようにと命じたほどです(8:30)

 明らかにイエス・キリストはご自分のことが知れ渡るのを歓迎しませんでした。その理由は聖書のどこにも明らかに記されてはいませんが、少なくとも栄光に輝く姿のメシアだけが独り歩きしてしまうのを好まなかったということでしょう。なぜなら、イエス・キリストが引き受けられたメシアの働きは、十字架の苦しみを伴ったものだったからです。この苦難を抜きにして、メシアの姿を勝手に美化して吹聴されることを望まなかったと考えられるからです。

 「復活するまで」という期限をつけられたのは、キリストが死んで葬られ、復活するときに初めて、キリストが予告した苦難のメシアの姿とその意味が明らかになるからです。そのときには、もはや栄光の姿のメシアだけが独り歩きすることはないからです。

 そう命じられた弟子たちには「復活するときまで」という、その言葉の意味そのものが理解できませんでした。弟子たちは死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合いました。そう論じ合いながら、一つの疑問にぶつかったと記されています。その疑問とはこういうものでした。

 「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」

 確かに弟子たちの言うとおり、旧約聖書のマラキ書のおしまいにはエリヤについてこう記されています。

 「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。 わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように」

 弟子たちがエリヤについて言及したのは、ただ一つの理由からであったと思われます。それは、エリヤがメシアに先立って遣わされるその理由が、イスラエルの心をメシアにむけさせるためであったとするならば、なおのことメシアの姿を見た自分たちが、人々の心をメシアに向けさせるのは当然ではないか、と考えたからにほかなりません。

 しかし、イエス・キリストの答えはこうでした。

 「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

 つまり、エリヤは既に到来したにも関わらず、人々の勝手なあしらいのために、メシアを迎える心の備えはできなかったということなのです。しかし、まさにそのことのために、人々がエリアを勝手にあしらったのと同じように、メシアも勝手にあしらわれて、苦しみを受けなければならないのです。

 ここには弟子たちも理解できない神の深いご計画と配慮があります。一方ではイエス・キリスト自らがこの苦難のメシアの職務をご自分の身に負われましたが、他方では、人間の側の頑なな思いのゆえに、その遣わされたメシアを十字架へと追いやってしまうことになるのです。

 このような不思議な救いの道筋について、弟子たちは何も理解しなかったでしょう。いえ、そのような人間の愚鈍さをも超えて、キリストは栄光に輝いた山から下られ、苦難の道を歩んで救いを達成してくださいます。

コントローラ


自動再生されない方はこちらから再生(mp3形式)
Copyright (C) 2018 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.