聖書を開こう 2018年9月6日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  まことの命を手に入れるには(マルコ8:35-9:1)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 長寿大国の日本では、これ以上長生きをしたいと願う人はそれ程多くはないかもしれません。ただ、人並みに平均寿命を生きて、一生が終ればそれで満足と思う人が多いのではないかと思います。それは、ことさら長く生きると言うことに執着しなくてもよいほどに、みんなが長生きしていると言うことだと思います。むしろ、多くの人が望んでいることは、長くなった平均寿命までの期間を、できるだけ幸せに暮らしたい、豊かに過ごしたい、健康に過ごしたいという願いではないでしょうか。今の時代は命の長さよりも、命の質の方により関心が向いている時代です。

 さて、きょうの聖書の個所には「命」についての問題が取り上げられています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 8章35節〜9章1節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 先週学んだ個所でイエス・キリストは、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。その後に続く言葉が、きょうお読みした個所です。当然のことながら予想されることは、もし十字架を背負ってキリストの後に従っていったなら、命までも危うくなってしまうのではないかという危惧感です。確かにキリスト教会の歴史を学ぶときに、イエス・キリストと同じように殺されていった人々が大勢います。実際、この百年の間にキリスト教信仰のゆえに迫害で命を落とした人の数は、過去のどの時代よりもひどいと聞いています。そういう事実を知るときに、そこに何かの意味がなければ、キリストの言葉には従い難いものがあります。そこで、イエス・キリストはこうおっしゃいました。

 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」

 ここでいう「命」とは、明らかに二つの違った意味で「命」のことが取り上げられています。「自分の命を救いたい」と言う場合の「命」とは、あくまでもこの地上での限られた「命」のことです。それを救うと言うのは、様々な災厄を逃れて平穏無事に生きるということでしょう。そういう願いは今の私たちにもありがちな願いです。

 しかし、イエス・キリストはそういう地上の命の無事を願う者は、それを失うとおっしゃいます。「それを失う」と言うときの「それ」とはいうまでもなく「命」のことに他なりません。しかし、その意味内容は、けっして「地上での命」と言うことではありません。失うのは「神の御前での命」のことです。

 ここで、イエスがおっしゃりたいことは、自分が長生きしようと躍起になっていると、早死にしてしまう、と言うような、そんな俗っぽいことではありません。あるいは、「命あってのものだね」という言い古された格言を繰り返しているのでもありません。地上での命をどんなに豊かに飾ったとしても、また、どれほど健康に留意して命を長く伸ばせたとしても、それがそのまま神のみ前での命の質や長さとは関係がないと言うことなのです。いえ、むしろこの地上での命のことばかりに気をとめていると、神のみ前での命をうかつにも失ってしまいます。

 キリストに従うということは、もっと価値ある命について目を開かれ、この神のみ前での命を大切にすると言うことに他なりません。

 わたしたちの人生にとって最大の問題と思われている、この地上での命が、実は人生にとって最大の問題ではないという価値の逆転がここにはあります。神のみ前で生きるという命の方がより本質的な問題であり、大切な問題なのです。であればこそ、この地上の命を延ばしたり、豊かにするために、全世界を手に入れるのはむなしいことなのです。

 もちろん、この地上での命が大切でないとは言いません。それも神から与えられた大切な命です。むやみに断ち切ってよいようなものではありません、しかし、それを維持し、より豊かにするために、あらゆるものを犠牲にし、全世界を手に入れるほど重大なものではないのです。

 もっとも、全世界と言うのは、大げさに聞こえるかもしれません。そこまでして自分の命を守ろうとする人はいないと反論するかもしれません。せいぜい小さな、自分と家族が楽しめるだけの財力以上のものを求めてはいないと言うかもしれません。しかし、この地上の命を支えるために、本末転倒になっているというのは少なからず見られることです。人間関係を犠牲にしたり、社会の信頼関係を裏切ったり、時には倫理や道徳を無視してまで地上の命のことに埋もれてしまうということはしばしば起こりうることです。

 そんな本末転倒なことによって支えられたこの地上の命をどれほど優雅にまた豊かに生きたとしても、それによって神の前で豊かな命を生きているとはいえないのです。

 神の前に与えられる真の命……それを聖書は「永遠の命」と呼んでいますが、その永遠の命は、ただ、キリストのうちにだけ見出されるものです。キリストを信じ、キリストに従うときに与えられるものなのです。このキリストに結びついて地上での生涯を送るとき、永遠の命も豊かにされるのです。キリストから離れて、永遠の命、真の命のことは考えることはできません。

 「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」

 この言葉は厳しい言葉のように聞こえます。この地上でキリストとの関係を否定すれば、来るべき世にあっては、キリストの側から私たちとの関係を断ち切られてしまう、そう取られてしまう言葉です。その意味では、後にイエスのことを人々の前で否定したペトロこそ、このキリストの言葉にどれほど恐れを感じたことでしょうか。

 しかし、この言葉は、裏を返せば、この地上ではキリストとの関係だけが大切であるという恵みの言葉でもあるのです。身分や人種、功績といったことが問題なのではありません。キリストとの関係だけが、救いの源泉だと言うことなのです。それ以上のことは要求されていないません。過去の行いのゆえに、あるいは、現在の身分のゆえに、永遠に救いの見込みがなくなってしまうのではありません。そうではなく、これからでも、キリストとの関係をもち、キリストに従うならば、誰でも栄光のうちに神のみ前に受け入れられる希望があります。

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