聖書を開こう 2018年8月30日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  キリストに従う弟子の道(マルコ8:34-9:1)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 クリスチャンになると言うことを考えるとき、大抵の人は尻込みしたくなるような思いになってしまいます。清く正しい生活など送れる自信がある人など、そうそういるはずもないからです。まして、自分を捨てて自分の十字架を背負ってキリストについていくなどということを聞かされれば、誰だってよほどの覚悟を決めなければ、クリスチャンになどなれるはずもありません。

 確かに、そういう意味では、安易な気持ちでクリスチャンになることは避けた方がいいと言えるかも知れません。けれども、いつまでも尻込みしていたのでは、誰もクリスチャンにはなることができないということになってしまいます。

 きょうは弟子として私たちを招いていらっしゃるイエス・キリストの言葉から、その厳しさと共に恵みをも学び取っていきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 8章34節〜9章1節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 先週は本当のメシアの姿を初めて弟子たちに語ったイエス・キリストの言葉をご一緒に学びました。イエス・キリストが弟子たちに明かしたメシアの姿は、弟子たちが期待していたような力強い王の姿ではありませんでした。苦しみに遭い、なぶり殺されてしまうメシアの姿です。その苦しみを通して、死に打ち勝ち、救いをもたらすメシアです。

 きょう学ぶ個所は、その苦難のメシアに従う弟子たちの歩むべき道、苦難のメシアに従う弟子の生き方についてです。イエス・キリストはこの苦難のメシアに従いたいと思う者たちにこうおっしゃいました。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」

 「わたしの後に従いたい者」というのは、言うまでもなくイエスを苦難のメシアと知ってのことです。人間的な意味での余計な期待は最初からできないことを覚悟の上で従いたいと願う者たちです。弟子のペトロはイエスに対して「あなたこそメシアです」と告白しましたが、そのペトロに対してキリストは本当のメシアがどんな姿であるかをあからさまに語りました。そのときペトロは、すかさずイエスを脇へ連れて行き、いさめたとあります。しかし、イエス・キリストがここで呼びかけているのは、苦難のメシアを否定して従おうとする者たちではなく、苦難のメシアであるイエス・キリストに従おうと願うものたちに呼びかけています。

 このイエス・キリストの呼びかけに弟子たちがふさわしかったかどうか、この後の展開を見ると、弟子たちがキリストを理解するにはまだまだ時間が必要でした。一方でペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と自負できるほど、キリストに従おうとしてきた人でした(10:28)。しかし、他方では依然として誰が一番偉いのかを他の弟子たちと論じ合う弱さも持っています(9:33以下、10:41)。イエス・キリストはこのとき、そういう弟子たちの弱さを知っていながらも、ご自分に従いたいと思う者を招いていらっしゃるのです。

 さて、イエス・キリストはご自分に従いたいと思う者たちに対して、三つの事をまず求めています。

 その一つは「自分を捨てる」と言うことです。それは自分自身を否定することでもあります。最近よく見かけたり、耳にする言葉に、「自分を受け入れる」という言葉があります。一見したところ、それとは正反対のことをイエス・キリストは求めていらっしゃるように思われるかもしれません。

 しかし、よくよく考えてみると、自分を受け入れることと自分を捨てることとは、深いところでつながっているように思います。自分を受け入れると言うのは、自分の欠点をも含めて、その自分のありのままの姿を自分として認めることです。そういうありのままの自分が自分であることを肯定することです。泣いても笑っても、ひっくり返っても、それが自分の偽りのない姿であると認めることです。実は、そういう自分の姿を自分ではないと否定してしまったならば、自分を捨てるなどと言うことはできません。例えば、自分では自分が強欲で、不純で、罪深いとはそれ程思っていないのに、そういう思ってもいない自分を捨てましたといっても何も意味がありません。捨てたといっても、それでは、結局、本当の自分は残ったままです。

 キリストが求めていらっしゃる「自分を捨てる」と言うことは、真実な自分の姿を神のみ前で認め、その自分を神に明渡すと言うことに他なりません。

 二番目にイエス・キリストが求めていらっしゃることは「自分の十字架を背負う」ということです。実は、この言葉は熱心党の人たちの合言葉でもあったそうです。つまり、彼らは命を捨ててでも異邦人と戦い、十字架刑をも恐れない人々でした。そういう意味で、彼ら熱心党の人々には、十字架は英雄のシンボルでもありました。

 しかし、キリストがここで求めていらっしゃるのは、そういうその当時の英雄的自爆テロでは決してありません。そうではなく、苦難のメシアが歩まれた道を共にすることです。侮られてもののしり返さず、恥と苦しみを背負う勇気です。敵を愛し、迫害されても相手に祝福を祈る姿勢です。

 そして、三番目に、そういう心構えと準備のうえに、「わたしに従う」ということが求められているのです。

 自分を捨ててそれでおしまいではありません。自己否定そのものに意味があるのでは決してありません。恥と苦難そのものに意味があるのでももちろんありません。大切なのはイエス・キリストに従うと言うことです。キリストに従うための自己否定、キリストに従うための恥と苦難なのです。

 しかし、そこには大きなことが約束されています。それは、どんな代価を払ってでも買い取ることのできない命が約束されています。だれでも、自分らしさを大切にしたいと思うのは当然です。しかし、キリストを離れて、この苦難のキリストを離れて、真の命を得ることはできません。キリストに自分を明け渡し、キリストに従っていくときに、本当の自分を見出すことができるのです。

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