聖書を開こう 2018年7月5日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  異邦人にも救いの恵みが(マルコ7:24-30)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 これまでのイエス・キリストの歩みを見ていると、いろいろなものをひっくり返しているように感じられます。

 例えば、これまで敬虔なユダヤ人なら誰でもがしてきた断食を、イエス・キリストは弟子たちに強制しませんでした(2:18-)。あるいは、安息日についての理解も、ユダヤ人のように杓子定規な規則で縛ろうとはなさいません(2:23-)。罪人とは誰かということについても、ユダヤ人とは考え方が違ったようです。普通のユダヤ人なら、けっして自分の仲間には加えないような人たちを加えました。例えば、徴税人を弟子に加えるというようなことは、健全なユダヤ人なら考えもしなかったことです(2:13-)。このことは神の御用のため聖別されたものとそうでない汚れたものとの区別にも現れています。ユダヤ人たちは手や体を清めることに心を用いましたが、イエス・キリストは人の心の中にあるものを問題とされました(7:14-)。さらに異邦人と選民との区別についてもユダヤ人とイエスの間に違いが現れてきます。

 きょうは異邦人の地に足を運んだイエスの話を取り上げます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 7章24節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

 イエス・キリストは汚れについて、ユダヤ人と論争したあとで、「そこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた」(7:24)とあります。ティルスというのはガリラヤから見て北西方向にある地中海沿岸の地方です。だれにも知られたくないと思い、ある家に入られたわけですから、この旅行は、6章以来ずっと休む暇もなく働きつづけた弟子たちに安息を与えるためであったのかもしれません。

 このティルスの地方というのは、フェニキア地方でもあります。それは異教徒の地ということもできるでしょう。

 イエス・キリストがユダヤ人たちと汚れの意味について論じ合った後だけに、この異教の土地にキリストが足を踏み入れられたことは、ただの偶然とは思えません。

 さて、このティルスの地方では、ひっそりと身を潜めて休むはずだったのですが、イエスのことを耳にした一人の女性のために、たちどころに休息の機会は奪われてしまいます。

 すでに3章7節で取り上げた通り、イエス・キリストの評判はティルスやシドンのあたりにまで広がって、その地方からイエスのもとへと人々がぞくぞくと来たのですから、人知れずティルスの地方に隠れて過ごすことは、最初から難しかったに違いありません。

 イエス・キリストがおられることを聞きつけてやってきたのは、一人の女性でした。「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」といわれています。要するに、ユダヤ人の女性ではなかったということです。女性に対して、イエス・キリストが手を差し伸べられたことは、すでに何度かありました。ペテロの姑の熱病を癒したり、12年間病を患う女性を癒したり、また、わずか12歳の少女を死の床から起き上がらせました。ただ、その人たちは皆、ユダヤ人、つまり選民の女性たちでした。

 ところが、きょう登場するのはユダヤ人の女性ではありません。ユダヤ人が軽蔑する異邦人の女性です。この女性には娘がおり、娘は悪霊に苦しめられています。どこの国の母親でもそうですが、できることなら自分が身代わりになってでも、娘を助けたいという思いでいっぱいだったことでしょう。この女性はキリストのもとにきてひれ伏して願います。

 しかし、イエス・キリストの対応は、今までのものとは異なり、ずいぶんつれない答えのように聞こえます。

 「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」

 謎かけのようなこの言葉の意味を、この異邦人の女性はすぐに悟ったようです。

 ユダヤ人にとって、異邦人は犬と呼ばれました。異邦人であるこの女の娘は小犬ということでしょう。イエス・キリストのパンはまず神の子らであるイスラエルに差し出されるべきだ、ということなのでしょう。マタイによる福音書はもっとストレートにキリストの言葉を記しています。

 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(15:24)

 たしかに、第一義的には、メシアが遣わされたのはイスラエルの民に対してでした。神はイスラエル民族を通して救いをもたらすことを望んでいらっしゃったからです。しかし、それにもかかわらず、この異邦人の女性は引き下がりません。

 「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」

 この女は自分が犬であり、娘が小犬であると呼ばれることを気にもとめません。自分が恵みに値するなどと争うつもりはこれっぽっちもありません。ただただ、神のみ手からこぼれる恵みにすがろうと願っています。小犬でさえこぼれたパンをいただくことができるのですから、自分たちも恵みのおこぼれに与ることができると、そう確信しています。

 イエス・キリストはこの女性の願いに従って、その娘から悪霊を追い出されました。

 もし、救いに値する者だけが救われるのだとすれば、異邦人はおろか、選民でさえ救われることはないでしょう。恵みとは、そもそも無条件で与えられるからこそ恵みです。

 自分が救いに値しないと思い、それでもなおキリストを通して恵みをいただきたいと願うなら、その者の上に神の恵みは注がれます。そこにはユダヤ人と異邦人の区別はありません。イエス・キリストが救いに関わるすべてを請け負ってくださるからです。

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