メッセージ: 人を汚すもの(マルコ7:14-23)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「よごれ」という言葉を聞いて、どんなことを真っ先に連想するでしょうか。服が汚れている、部屋が汚れている、など、一般的には目で見て判断できる汚さを指して「よごれ」といいます。もちろん、「心が汚れている」という場合には、目では見えない、比ゆ的な表現でも使われる場合もあります。
「よごれ」を漢字で書くと「汚れ」(よごれ)とも「汚れ」(けがれ)とも読むことができます。「よごれ」と「けがれ」とでは、かなりニュアンスが違います。「けがれ」はどちらかというと、心情的、内面的要素が伴っているように思います。場合によっては宗教的な要素も多分に含まれることもあります。
「部屋がよごれていますけど、どうぞおあがりください」と言われれば、それは謙遜から出る言葉だろうと思いますし、実際に多少部屋が汚れていても、それほど気にはしません。しかし、「部屋がけがれていますけど、どうぞお入りください」と言われたら、この部屋で一体何が起こったのかと気味が悪くなってしまいます。
あるいは「けがれを知らない幼子」といえば、純真無垢なイメージです。無邪気に泥んこ遊びをしていても、「けがれを知らない幼子」と表現してもおかしくはないでしょう。
今日取り上げる箇所には、人を汚すものがどこから来るのか、イエス・キリストの教えが記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 7章14節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
先週学んだ個所には、イエス・キリストの弟子たちが洗わない手で食事をする場面が出てきました。それは宗教的な汚れを嫌う律法学者やファリサイ派の人々にとっては、キリストを非難する格好の材料でした。
聖書が教える「聖である」とか「不浄である」というのは、本来は神との関係の中で理解すべき言葉でした。神の御用のために取り分けておくものが聖なるものであり、世俗の用のために用いられるものは神の御用のために用いるには汚れたものでした。
神から選ばれた選民であるイスラエル民族は、その意味で確かに聖なる民族でした。そのように神の御用のために聖別された民族であるという自覚のために、ユダヤ人たちは自分たちがこの世の民族に染まって、神の御用を果たしえなくなることを非常に警戒していたのです。そのために、手を洗ってからでないと食事をしないという習慣が生まれてきました。
さて、イエスはこのような習慣が陥る問題点を大胆に指摘なさいます。イエス・キリストが問題とされるのは、目に見える人間の行動ではありません。それを生み出している心の内側を問題にされます。
先週学んだ個所でもそうでしたが、ユダヤ人たちが先祖伝来の教えとして受け継いできたことは、神の律法が目指すところと矛盾したものでした。イエス・キリストはそのことを既に指摘した上で、手を洗うという宗教的な習慣についても問題にされているのです。
つまり、手を洗うということがユダヤ民族を神の民として聖なる状態に保つという誤った考え方に、イエス・キリストは異議を唱えられます。手を洗う行為が自動的に清さを生み出すのではありません。むしろ、そのような行為が、本当に神を畏れ敬う気持ちから出ているのでなければ、まったく意味のないものとなってしまいます。
確かに旧約聖書の中には、「わたしが聖なる者であるように、あなたがたも聖なるものとなりなさい」と命じられています。しかし、この神の命令を実現するのは、けっして手を洗うという形式的な行為によるものではないことは明らかです。むしろ、その程度にしか神のみ前で生きる清さということを考えていないのだとすれば、この掟の本来の主旨とはまったくかけ離れたものになってしまいます。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」
たとえ洗わない手で食べ物を食べ、その食べ物に宗教的な汚れが付着しているとしても、せいぜいそれは腹を通過して外に排出されるだけです。そのものが心の中に留まって、その人間を神から引き離してしまうということはありません。
また、逆にどんなにきれいに洗い清めた手で食事をしたからといって、そのことがその人の心を清め、神のために聖別された人間を造るわけでもないのです。
問題は、むしろ、その人の心の中に何があるのか、ということです。その人の心のうちに悪い思いがあるのであれば、その人は既に汚れているといわざるを得ません。その汚れた心を清めないで、手を洗ったとしても、それはまったく意味のないことです。
弟子たちを非難したファリサイ派の人々は、すでにこのマルコ福音書の中で記されているように、イエス・キリストを何とかして殺そうと相談をしている人々でした。そのような殺意を心の中に抱きながら、神が聖書で教える清さについて論じるとはとてもおかしな話です。
洗わない心で、清められない心で神のみ前に出ることこそ、神の御心に沿わない生き方なのです。
イエス・キリストがいらっしゃったのは、この心の汚れを取り除き、私たちをしみも傷もないまったく清い民として、神のみ前に立たせるためでした。このキリストによって罪を赦していただき、心を清めていただくときに、私たちは本当の意味で聖別されたきよい民となることができるのです。
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