聖書を開こう 2018年5月31日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  まことの飼い主イエス(マルコ6:35-44)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 貧困と飢え…これは、人間が克服しようとしてずっと努力を積み重ねてきたことがらです。そして先進国と言われる国の人々は、この貧困と飢えから解放されたかのように思われています。

 しかし、今度は別の意味の貧困と飢えが人間を襲っています。それは、豊かさの中にありながら持っている物を分かち合おうとしない貧困さ、誰からも必要とされていないと思ってしまう飢えです。世の中をリードする力を与えられた者たちが、持っている物を分け合うことを知らず、また、一人一人に与えられた価値を無視する傍若無人な生き方をすれば、ますますこの新たな貧困と飢えは増大する一方です。

 こうして、豊かな先進国で生きながら、貧困に直面し、疎外感を味わう人たちのなんと多いことでしょうか。

 神の国の民を養う羊飼いであるイエス・キリストが、どのようにリーダーシップを発揮されたのか、きょうの聖書の個所からご一緒に学びましょう。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 6章35節〜44節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが2百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。5つあります。それに魚が2匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、50人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、2匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、12の篭にいっぱいになった。パンを食べた人は男が5千人であった。

 きょう取り上げた聖書の個所は、とても大きな出来事です。わずか2匹の魚と5つのパンで、5千人分もの食事をまかなって、なお余りあったと言うのですから、信じがたい事件です。そんなことが可能か不可能か、そんなことをここで論じても始まりません。神にはできないことは何一つないという一言で、その議論の決着は十分つくでしょう。

 それよりも、私たちがもっと大きな関心を払わなければならないのは、この出来事を通して、私たちがなにをそこから受け取るのかということです。このことを通して、イエス・キリストが私たちに何を悟らせようとなさっていらっしゃるのかと言うことです。

 実は、マルコによる福音書がこの日の出来事を描くのには、とても周到な準備がありました。まず、先週学んだように、イエス・キリストの目には、群衆たちの姿が飼う者のいない羊のような有様に見えたということが、この出来事に先立って記されています。もちろん民を養うはずの指導者がまったくいなかったと言うのではありません。宗教的な意味から言えば、祭司長、律法学者といった立派な人たちがおりました。また政治的な意味から言えば、ガリラヤ地方にはヘロデ・アンティパスという領主がおりました。

 それにもかかわらず、イエス・キリストの目には民衆の姿が、羊飼いを欠いた羊の群れのように、さ迷い傷つく姿に映ったのです。

 さらに、そのような民衆の弱り果てた姿を描くに先立って、マルコ福音書は領主ヘロデ・アンティパスの誕生日の宴の様子を描きます。そこには有り余るほどの食べ物があったことでしょう。王女サロメが演じる妖しげな舞も披露されます。宴会の余興に洗礼者ヨハネの生首が盆に載せられて宴会の席に運ばれます。人を人とも思わない残忍な世界です。

 そうした世界とはまったく対照的な世界が、きょう描かれる荒れ野での5千人の給食の話です。

 イエス・キリストは、この羊飼いを失った民衆たちに、時間を惜しまず色々と教えられたとあります。今や日も傾き、群衆たちを解散させなければならない時間が来ています。弟子たちが、そのことを気がかりに思うのは無理もありません。自分たちの後を追ってきた民衆たちをこの荒れ野で飢えさせるわけにはいきません。一刻も早く群衆を解散させて、周辺の村や町で何か食べるものを買わせることが一番良いことだと弟子たちには思えました。それは確かに堅実な行動です。

 しかし、イエス・キリストはこの日、弟子たちと群衆にご自分がどんなお方であるのかをお示しになりました。

 それは、旧約時代の昔、荒れ野で民を導き養ったモーセのような指導者の姿です。

 かつてモーセは荒れ野で天からのパン、マナをもって民たちを養いました。もちろん、マナを降らせたのは、神ご自身であって、モーセではありません。そういう意味では、イエス・キリストはモーセ以上のお方ということができると思います。イエス・キリストが群衆に与えたパンは、ただのパン切れではなく、天からのパンに匹敵するものです。

 また、ここで描かれるイエス・キリストの姿は、群れに食べものを与えるイスラエルの牧者の姿です。傷つきさ迷う民衆に対して、ご自分こそが群れを委ねられた羊飼いであることをお示しになっています。

 かつて、詩編23編の作者はイスラエルの神、主を呼んで、「主はわが牧者、わたしに乏しいことはない」と歌いました。その羊飼いである神は、羊を緑の牧場に伏させます。

 丁度それと同じように、イエス・キリストはご自分の羊である群衆を青草の上に座らせて、食べ物を与えます。

 主イエス・キリストは人里離れたこの場所を、まるで天国の宴会の席のように変えてくださいます。ヨハネの首が運ばれてきた死の宴会の席とは何と対象的なことでしょうか。ヘロデの宴会はあふれるばかりの食べ物があっても死の宴会なのです。他方、イエスの開かれた宴はパンと魚の貧しい宴会ですが、そこには傷ついた群れを癒す命があるのです。

 この5千人もの人々を養った奇跡の中に、このまことの羊飼いであるイエス・キリストの姿を見出すことができる人は、何と幸いなことでしょう。

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