聖書を開こう 2018年5月24日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  飼い主のいない羊のように(マルコ6:30-34)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 毎日、新聞を読んだり、テレビのニュースを見ていると、悲惨な出来事や憤りを感じる事件を目にします。そうした事件の背後に人間の罪深さをひしひしと感じます。そして、そんなときにふと思うことは、イエス・キリストがこの事件をご覧になったとき、どうお感じになるだろうかということです。

 呆れられるだろうか、憤られるだろうか。あるいは悲しまれるだろうか、憐れに思われるだろうか、いろいろ想像をめぐらします。

 そして、イエス様だったらどうなさるだろうかと、しばし考えをめぐらせます。

 さて、きょうこれからお読みする個所にはご自分のもとへと集まる群衆を、イエス・キリストご自身がどんな眼差しでご覧になったのかが記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。

 きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 6章30節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」

 きょうの個所は、派遣した弟子たちが、再びイエス・キリストのもとへ戻ってきて、自分たちの活動の様子を報告した、と言う場面から始まります。具体的にどんな報告がなされたのかは記されていませんが、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」とあります。きっと強いられて報告したと言うよりも、報告したくてたまらないほど、様々な経験をしてきた弟子たちであったと思います。

 イエス・キリストはこの弟子たちにゆっくりと休んでもらおうと、人里離れたところへと行くようにとお命じになります。ただ、がむしゃらに次の宣教の場所へと弟子たちを派遣なさることはありません。それは、ただ単に体を休めるためというばかりではなく、神と交わり、心の安らぎと新しい力を得るためでもあったと言ってよいでしょう。実際、イエス・キリストご自身も、人里離れたところへ出かけて行き、祈る習慣を持っていらっしゃいました(1:35)。

 福音を述べ伝えるという働きは、人を相手とし、人とかかわる働きです。しかし、一旦人から解放されて、神との交わりを持つことが、次のステップに進むうえで、どれほど大切であるかを教えられます。

 しかしながら、イエス・キリストの後を追いかける群衆たちは、その大切な休養のときさえも弟子たちに与えようとはしませんでした。出ていく弟子たちを見つけると、町からいっせいに出かけていき、弟子たちが舟で到着するよりも先に目的地に向かったとあります。

 さて、その大勢の群衆の姿を見て、イエス・キリストがどう思われたのか、そして、どう行動されたのか、ここには記されています。

 まず、イエス・キリストのご覧になった群衆の姿は、「飼い主のいない羊のよう」であったと言われています。しつこくキリストの後を追い掛け回すこの群衆は、イエスの目には「飼い主のいない羊」と同じに映りました。

 「飼い主のいない羊」とは旧約聖書の中にしばしば出てくる表現です。それは民を治めるようにと立てらたれた指導者と民衆の関係を描いています。特にエゼキエル書の34章に出てくるのは、羊を養うはずの牧者が、自分の幸福を追求して、私腹を肥やすことに夢中であるために、羊である民衆が傷つきさ迷う姿です。

 預言者エゼキエルはそうした指導者たちを批判して、こう預言します。

 「主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。…彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う」(エゼキエル34:2-6)

 エゼキエルの時代からはずっと隔たった時代のイエス・キリストですが、まさに、同じような惨めな群衆の姿を目の前に見ています。もっとも、キリストがそこに感じたものは、指導者に対する憤りではなく、それよりも前に、傷つきさ迷う羊に対する憐れみの気持ちです。

 イエス・キリストはそのありさまを見て「深く憐れまれた」と記されています。

 この「憐れむ」という言葉は、ただ単に同情すると言うのとは違います。憐れに思うというのとも違います。新約聖書の中でたった12回しか出てこない言葉ですが、その言葉はいつも父なる神やキリストの心情を言い表すときにしか用いられない言葉です。はらわたを動かすほどの、体の奥底からでる、いえ、心のもっとも奥底から出てくるような深い憐れみです。

 善きサマリア人が傷ついた人を見て、すぐにも抱きかかえたくなるような憐れみの気持ち(ルカ10:33)、帰ってきた放蕩息子を見つけた父親が駆け寄って抱きしめたくなるような憐れみの気持ち(15:20)、返せなくなった借金の返済を待ってもらおうとしきりに願う僕を赦そうとする王の憐憫の気持ちです(マタイ18:27)。

 どれも神の憐れみを描いたキリストの譬え話に出てくる表現です。

 この深い憐れみの気持ちは、飼う者のいない羊のような群衆をご覧になったとき、イエス・キリストのうちに沸き起こりました。

 さて、イエス・キリストが今のこの世の中をご覧になるとき、ほんとうに養い育てる牧者を欠いた民衆をご覧になって、どれほど深くこの世を憐れまれることでしょうか。この深い憐れみの気持ちこそが福音を述べ伝える大きな動機です。

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