聖書を開こう 2018年5月3日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  十二弟子の派遣(マルコ6:6b-13)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 牧師になるための学校で学んでいた頃のことです。その学校では毎年夏になると学生たちを各地の教会や伝道所に派遣しました。「夏期伝道」と呼ばれる2ヶ月の間、学生たちは講壇から語る説教をはじめ、牧師がする様々な働きを経験します。

 それは学生たちにとっては、自分の力不足を知るよい機会であり、また、これからの学びをさらに意欲的にするためのよい機会でもありました。

 また、2ヶ月間という短い期間ではありますが、そこで体験する神の力強さと恵み深さとは、自分自身の足りなさや弱さを補って余りあるものがあります。たいていの学生は神が身近にいてくださることを実際に経験して、これからの残された訓練の期間を豊かに過ごす励みを与えられます。

 さて、きょうお読みする個所はイエス・キリストが12人の弟子たちを派遣する場面が描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 6章6節後半〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、12人を呼び寄せ、2人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖1本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は2枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 イエス・キリストが周りに集まった人々の中から特別に12人の弟子を選び出し、使徒として任命されてから、相当な月日が流れたことと思います。その12人を選び出された目的は「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」と3章14節と15節に記されていました。

 その相当な期間、キリストのそばに置かれたこの12人は、耳でも、目でも、そして、肌で直に感じるほどに、イエス・キリストの教えと御業に触れてきました。そういう意味では「彼らを自分のそばに置く」という目的は十分に満たされました。キリストの御許で訓練を受けたこの弟子たちを、今や宣教に遣わそうとして、細かな訓示を与えています。ここに述べられることが、すべて現代の伝道者にも文字通り当てはめられるべきだとは思いませんし、また、伝道する信徒一人一人に当てはめて考えるべきものでもないでしょう。しかし、イエス・キリストがここで弟子たちに何を学び取らせようとなさっておられるのか、その点を学ぶことは今の私たちにとってもとても有意義なことだと思います。

 まず、イエス・キリストは彼らを遣わすときに、2人ずつのペアを作って派遣されました。決して一人で行かせなかったということには、いくつかの理由が考えられます。まずは神のみ業を証言するには、2人の証言によってあらゆる疑いを払拭できるという面があったと思います。もちろん、それでも証言を信じない人はいたでしょう。しかし、少なくとも一人の証言では端から相手にされないことも起こりえたことでしょう。

 2人1組にして遣わす理由は、もっと実際的な益もあったはずです。一人が倒れるときに一人が励ますと言うことができるからです。励ましあうというのは、肉体的にも精神的にもそうですが、サタンの誘惑に立ち向かうという意味でもそうです。イエス・キリストは弟子たちを遣わすにあたって、ただ、一人ぼっちで頑張るようにとはお考えにならず、人と人が支えあって働くことの大切さを学ばせようとされたのです。

 ちなみに、マタイ福音書の10章に記された12人の名前のリストは、2人ずつ1組のペアになっています。ひょっとしたら、これがイエス・キリストが弟子を派遣されたときの組み合わせなのかもしれません。

 さて、派遣に当たって「杖1本」「下着1枚」そして履物以外、パンも袋もお金さえも持っていかないようにと命じられています。これは言うまでもなく、神以外に頼るものを持たないと言うことを学ばせるためであったのでしょう。

 自分自身の経験ですが、昔、家族でキャンプを楽しんでいた頃、毎年必要と思われるキャンプ用品を買い足していきました。キャンプ用品を備えるときには、それなりの必要を感じて買い足すのですが、気が付くと荷物が膨れ上がり、キャンプをする意味すらわからなくなってしまう状態でした。

 もし、弟子たちが、必要なものを次々と想定して旅支度を始めたら、それこそ何のために出かけるのかわけがわからなくなってしまうでしょう。

 人間とは弱いものです。すべてが十分に満たされてしまうと、神に頼ることさえ忘れてしまいがちです。

 けれども必要最小限の物だけを持って、あとは神の御手に委ねるという姿勢は、決して無謀なことを求めていたのではありません。イエス・キリストはそれぞれの土地に行ったら、一つの家に留まるようにと命じています。イエス・キリストの命令には、どこに行ってもちゃんと世話をしてくれる家が神によって備えられているという前提があります。決して、誰の世話にもならずに伝道せよとはお命じになっていません。

 ただ、二つのことを想定して注意がなされています。

 一つは、世話をしてくれる家がたくさんある場合です。世話をしてくれる家がたくさんあれば、いろいろと宿泊先を変えたい誘惑に駆られるでしょう。より楽な方へ、より贅沢な方へと流れてしまう危険があります。

 イエス・キリストはとにかく一つの家に留まって、そこでのもてなしを感謝して受けるようにと勧めています。

 もう一つの注意点は、誰も迎えてくれる人がいない場合です。そのとき、飢え死にしてもいいから、そこで頑張りなさいとはお命じになりませんでした。そこを去って次へと向かうその決断も促しています。そのことは特に「キリストが地上にいる間」という短い期間の特別な事情から出た命令かもしれません。しかし、他の場所へ移るという決断が必要なときもあることを私たちに思い起こさせてくれます。

 さて、こうして遣わされた12人ですが、何よりもイエス・キリストから権能を授かっているということが大切なポイントです。私たちは使徒ではありませんから、十二弟子と同じではありません。しかし、キリストから委ねられたものを持っているという誇りと責任を忘れてはなりません。その自覚がなければ、宣教はただの人間の働きになってしまいます。何よりもイエス・キリストは、弟子たちに、この働きは神がいつも共にいてくださる働きであることを、身をもって知らせたかったのでしょう。

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