メッセージ: 不信仰とつまずき(マルコ6:1-6a)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
昔からその人を知っているというのは、たいていの場合は役に立つことです。たとえば、適任者を選ぶときに、ただ書類でその人について判断するよりも、昔からその人のことを知っているという方が、遥かに安心してその人に仕事を任せることができます。
けれども、その人に対する昔からの知識が邪魔をして、その人を正しく評価できないということもあります。知っているといっても、その人のすべてを知ってるわけではありませんから、昔得たちょっとした印象が現在の判断にも不正確な影響を与えてしまう場合です。
きょう取り上げようとしている個所には、イエス・キリストがご自分をよく知っているはずの故郷で起こった出来事が記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 6章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
きょうの個所は、イエス・キリストが故郷にお帰りになったという出だしで始まります。イエスの故郷がどこであったのか、マルコ福音書には具体的な地名が記されていません。ただ、イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けにヨルダン川まで出てきたとき、「ガリラヤのナザレから来て」(1:9)とあるように、一般的にはイエスの故郷はガリラヤのナザレであると考えられています。イエス降誕の次第を記したルカ福音書にも、イエスの両親は住民登録のために「ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」(2:4)と記されています。それでしばしば「ナザレのイエス」とさえ呼ばれています(1:24、10:47、14:67、16:6)。おそらく、きょうの個所もイエス・キリストが故郷のナザレにお帰りになったときの出来事であると思われます。
さて、ここには二つの驚きが記されています。一つはイエスの教えを聞いた村人たちの驚きです。そして、もう一つは不信仰な故郷の人々に対するイエス・キリストの驚きです。
はじめに、故郷の村の人々の驚きを見てみましょう。彼らの驚きには二種類あります。
最初の驚きはイエス・キリストの教えそのものに対する驚きです。教えに対するこうした驚きは、既にカファルナウムの会堂でもキリストの教えを聞いた人たちによって表されました。カファルナウムの人たちは、イエスの教えを聞いたとき、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ」と言って驚嘆しました(1:26)
同じように、ナザレの人々もイエスの教えを耳にしたときに、その知恵に驚きました。また、イエスの教えの知恵深さばかりではなく、イエス・キリストのなさる奇跡にも驚きを感じました。
ナザレの人々が感じた驚きは、実はそればかりではありません。ここから先がカファルナウムの人々とは違う反応です。
ナザレの人々はイエスの育った環境や育つまでの経緯を見てきたわけですから、このような知恵や力がいったいどこからきたのか、驚きを感じたのです。イエスの過去を知っていれば知っているほど、驚きを感じないではいられません。
「この人は、このようなことをどこから得たのだろう」(6:2)
この疑問はとても正しい問いかけと言うことができるでしょう。ナザレの村の人々は、耳にした教えや、目にした業そのものを否定はしませんでした。彼らが問題にしたのは、それらの教えや御業の権威がどこから来るのかという問題だったのです。
けれども、その問いかけに彼らは正しく答えることはできませんでした。イエス・キリストについての過去の知識が、どんどん目を曇らせていってしまいます。
「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(6:3)
この言葉にはイエス・キリストに対する一種の軽蔑の思いが見え隠れしています。少なくともイエス・キリストに対する驚きは、一気にイエスの権威に対する疑いへと変化していっています。
以前、律法学者たちが言ったように「あの男はベルゼブルにとりつかれている」(3:22)とこそは言わないものの、少なくともその権威が神から来たものであることには疑いを持っているようです。
さて、マルコが記すもう一つの驚きに目を留めてみましょう。それはイエスが抱いた故郷の人々の不信仰に対する驚きです。
マルコによる福音書は、故郷ナザレでのイエス。キリストの活動を記して「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」と書いています。ここで、マルコ福音書が言おうとしていることは、素性の知られている故郷では、イエスは何もできなかったということではありません。そうではなく、信仰と奇跡とがいかに密接にかかわっているのかということがここでは言われているのです。
そもそも奇跡とは病気が癒されたとか、悪霊が追い出されたとか、そういう結果が大切なのではありません。そうではなく、奇跡がなされるのは、それを通して神が今ここで働いてくださっていることを人々が信仰をもって受け入れるためです。奇跡とはそのためのしるしなのです。
イエス・キリストが故郷のナザレで奇跡をごくわずかしか行ない得なかったのは、イエスの無能力さのためではなく、むしろ、人々の不信仰の大きさのためでした。その不信仰の闇の深さにキリストは驚かれたとマルコ福音書は記します。
結局のところ、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう」と問い掛けるわたしたちの信仰が逆に問われています。このようなことが、人からでもなく、地上のどのようなものからでもなく、まして悪霊の頭からでもないとわかっていながら、それでもなお信仰をもってイエスを受け入れないわたしたちの心のかたくなさが示されているように思います。
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